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                            第236号
                       ―2011年11月発行―

                誇りを育てる

                園長 児嶋草次郎

                  

 まっ赤に熟した柿の実が一つ、また一つと地面に落ちるのをじっと見ていると、生のはかなさを感じてしまいます。木の葉のようにヒラヒラと空を舞うのではなく、グシュッという音とともに砕け散るその姿は妙に生々しく、仲間がトラックにつぶされた時の情景を思い出してしまいます。

 今回は園長に代って、ノラ猫のワシがこの通信を書かせていただいております。

園長宅に居候して2ヶ月ほどになりますか。園長の家族からは「親分」とか「親方」とか呼ばれて悪い気はしませんので、特に抗議もしておりません。お恥ずかしながら、ちょっと肥満傾向にあり、体も大きいのでそう呼ぶのでしょう。またあまりミャーミャーと言って食べ物をねだるのもプライドが許さないので、黙っていることが多く、そのワシの寡黙で忍耐の姿を好感を持って見てくれているのでしょう。人間とは単純なものです。もちろん園長には感謝はしています。

 現在、園長宅では、4匹のノラ猫が世話になっています。正確に言うと、元ノラ猫が2匹、彼女達は家の中で生活することを許されており、ワシともう一匹のチビスケは玄関あたりまでしか入ることを許されておりません。人間世界には「人権」とかいう不思議な決め事があるようですが、猫社会にはそんなものはありませんので、これも仕方ないことです。
 さて、ワシは、ノラ猫の目で見たこの友愛園の子ども達の姿等を書かせていただこうと思っております。その前にワシのことをちょっと語らねばならないでしょう。

 ワシがこの園長を少し信頼してみようかという気持になったのは、古い静養館の床下で、訪れた見学達にワシ達ノラ猫を誉める話を聞いて以来です。
 石井十次という元々この施設を創立した人物が最後に住んだという今から130年以上前の建物はかなり老朽化しているとは言え、その床下は、コンクリートが張ってあって湿気も少なく、特に夏は寝ごごちの良い場所です。また冬場は、その広い縁側でたっぷりと太陽の光を浴びながら昼寝ができます。カラスやノラ犬どももあまり近づかないし、安心安全なまさに「静養の館」でもあるのです。
 実は、その頃ワシは一匹の子猫を預かっておりました。ワシ達の主なえさ場は、園の牛舎の堆肥小屋です。ちょっとお恥ずかしい話ではありますが、園の子ども達の食べ残した魚の骨や残飯がワシ達の食糧でした。今もワシ達の仲間が何匹かその周辺で生きております。ワシが預かったチビスケはこの牛舎の2階のワラの中で生まれ、母親に育てられていたのです。

 ワシは流れ者でして、昨年の秋頃からこの地で住んでおります。ここからかなり離れた村の家で世話になっていましたが、そこの一人暮らしの老人がボケて入院してしまいましたので、旅に出るしかありませんでした。この旅の途中、様々な人間達に出会いました。「ドロボウ猫」と呼ばれたり、石を投げつけられたり、その本性を何度も見せられ、人間不信にも陥りました。今も人間が近寄ってくると、どうしても体が反応して逃げてしまいます。これは申し訳ないことですが最初園長夫人がワシをなぜてくれた時、ついひっかいてしまいました。
 次にチビスケの話です。ワシがチビスケに出会ったのは今年の春のある雨の日でした。ガリガリに痩せて今にも死にそうでした。母親が病気で死んだというではありませんか。カラス達と戦いその時の傷が悪化したのだそうです。最初はワシも見て見ぬふりをしておりましたが、このチビスケもカラスに襲われ連れ去られそうになりましたので、助けないわけにはいきませんでした。それ以来、私に付いて歩くようになったのです。

 他の兄弟猫達に比べて要領が悪い、場の空気が読めない、甘えん坊である。また危険予知能力もあまり育ってない。友愛園の子ども達の中にも似たような性格の子がいるようですが、これでは弱肉強食のノラ猫社会で生きてはいけません。それで亡くなった母親に代って私がもうしばらく面倒を見ることにしたのです。
 一緒に寝ていると、ワシの胸をまさぐってチューチュー乳を吸う行為にはびっくりしましたが、我慢して受け入れました。これが人間世間でいう「受容」というやつでしょうか。

 先ほどの静養館での園長の話にもどりましょう。ワシにとってはプライドをくすぐられる話で聞き入ってしまいました。「石井十次の間」に掲げてある「ライオン教育」の絵についての説明でした。この絵は、藤島武二という偉い画家が描いたものだそうで、「獅子(しし)が千尋(せんじん)の谷に我が子を突き落す」という古い中国の話を題材にしているとか。園長は次のように話していました。
 「獅子はこの絵ではライオンになっています。一般的には生まれた子を崖から突き落として、這い上がって来た子だけを育てると説明されているようですが、石井十次はそういう解釈ではないでしょう。友愛園にはノラ猫が住みついていまして母猫は、子を生んだら無条件に受け入れて大事に育てます。残飯はいつもあるわけではなく、ガリガリに痩せることもあり、それでも我が子に乳を飲ませ、外敵から我が子を守ろうとします。

 しかし、いつまでも甘やかすわけではありません。自立の時が来たら、親は態度を豹変し我が子を突き離します。この絵は、まさにその時を描いた絵であろうと思います。崖の上でお父さんライオンが大きな口を開けて叱咤激励していますし、お母さんは心配そうに見下しています。一方突き落された子どもライオンは、意味が分からずうつろな眼で空を見つめていますね。」
 今までノラ猫が誉められる話を聞いたことがありませんので、縁の下で半分眠りかぶりながら聞いていたワシにとっては、この園長の話は衝撃的で、思わず正座をしてしまったほどでした。
 それを機に園長に興味を抱き、チビスケを連れて園長宅の回りをウロウロするようになり、いつの間にか「玄関に居候」ということになってしまったのです。先に世話になっている2匹の黒ネコも、ワシ達と同じような経緯のようです。

 自己紹介が長くなってしまいました。今ワシは食べることについては園長宅で世話になっているので、のんびりとすごしております。友愛園の子ども達の生活の様子を遠くから観察し、見守ることが今の私の役割と言ってもよいでしょう。
 友愛園の子ども達が、朝夕庭掃除をしたり、畑で働く姿は美しく、見ている方も気持のよいものです。先ほどの「ライオン教育」じゃありませんが、これがこの友愛園の伝統的自立訓練法のようです。それぞれの子ども達がどういう事情があってここで生活しているのか、ノラ猫のワシ達には知ることもできませんが、皆明るくがんばっています。

 ある晩、園長が中学生寮の方へ出かけて行きましたので、私もこっそりついて行ってみました。広い食堂に子ども達と職員が皆集まって、「反省会」とやらをやっていて、子ども達は一人ひとり1ヶ月の反省を言い、次の月の努力目標をみんなで決めていました。我々ノラ猫と違って、人間はたえず反省し向上心と目標を持って生きているようです。人間世界も生存競争は厳しいのでしょう。
 園長は最後に、「誇り」について話をしていました。園の生活は国民から支えられる生活。その生活の中でいかに「誇り」を持つかが、みんなの重要な課題である。そんな風に話していました。人間誇りを持つと強くなるのだそうです。東日本で被災された方々の誇りとは何だろう。家族を失い、家も財産もすべて失ってしまって、何を支えとして生きておられるのであろう。多分「誇り」だろう。
 残された被災者どうし支え合い助け合い、つまり個人的欲望は我慢してルールを守り協力し合って、日本人として人間としての絆そして互いの尊厳をを大事にするという決意が誇りとなっているのだと思う、そんなことも言っていました。

 最後に、子ども達みんなに配った紙を次のように読み上げていました。

 「『確かに多くの人に助けられているけど、どっぷりと甘えているわけではない。自分達でできることは精一杯自分達でやっている。』この気持が誇りです。友愛園の労作教育は『誇り』を育てるものでもあります。」
 子ども達の心にも届いたようで、みんな真剣に聞いていました。外から窓越しに聞いていたワシも思わず身を引き締め直しました。園長も、最近の子ども達一人ひとりのがんばりを内心誇りに思っているようです。中学校で成績がベスト3に入る子もいるし、生徒会長に選ばれた子もいる。高校で部活動に頑張っている子もいる。あまり目立たないけど、挨拶が徹底してできる子、人が見てなくても掃除や作業を手抜きせずやれる子、それぞれに自分の勝負する場を見つけて、精一杯努力する姿は美しいものです。

 ワシも誇りを持って生きていかねばならない。ノラ猫としての誇りとは何ぞや。難しいけど、当分は、園長宅に居候うしながらチビスケの自立に寄り添おう。そして、友愛園の子ども達の成長ぶりを見守っていこう。そのうち、柿の実のように、天国への旅立ちの日が来るのだろう―。



                             第235号
                        ―2011年10月発行―

            労作教育

                  園長 児嶋草次郎

                       

 若竹の伸びゆくごとく子ども等よ真直ぐにのばせ身をたましひを 牧水

 キンモクセイのあまい香りが園内に漂い、柿の実も色づいて来て、本格的な秋を迎えています。今年は、長雨が何度かあって天候は不順でしたが、稲もりっぱに実ってくれましたし、ケイトウやカンナ等花壇の花々もそれぞれ精一杯に天に向かって生(命)を謳歌しています。私もこの時期になると、太陽やこの大自然の恵みに感謝の気持を抱くことができるようになります。

 子ども達は、9月、それぞれのグループごとに「稲刈慰労外食」と名うった外出に出かけていきました。大自然の中の生活だけで満足できるわけでもなく、人ごみや都会の匂いをかぐことのできる月1回の車での外出を、子ども達は楽しみにしているようです。
 しかし、のんびりと過ごせる9月でもありませんでした。8月末から9月にかけては、秋野菜の種まき期であり、土・日のいずれかの半日を使って、忙しく働かねばなりませんでした。野菜類は、収穫までにだいたい3ヶ月かかりますので、1123日の「収穫感謝祭」を目標に、中・高生の子ども達と一緒に播種、苗作り作業に汗を流しました。キャベツ、結球白菜、大根、人参、カブ、水菜、ホーレン草、ブロッコリー等、みんな順調に大地の上で成長し始めています。

 今年は春から夏にかけて、昨年の口蹄疫で殺処分となった牛3頭の補償金等を使って牛舎も立て替えました。暗くて湿気の多かった今までの牛舎に比べると、随分明るく衛生的に管理ができるようになります。今後牛を飼うことが子ども達にとって負担になっていくのではないかという迷いもありましたが、現在我が園の児童が高鍋農業高校の畜産科で3人学んでいることを考えると、簡単に捨てるべきではないと思い直しました。
 この宮崎県は農業県であり、この友愛園での「労作教育」を通して農業を志す人材を輩出することができれば、ありがたいことであり、私達にとっても誇りとなります。子ども達の「負担」は、隣にある「茶臼原自然芸術館」に通所されている障がい者の方々と共同作業をすることで克服していきたいと思います。

 牛を飼うことには大きな教育的意味もあります。牛の出産に立会うことは、何よりも生命の教育になりますし、牛が生産してくれる堆肥は、作物を作る際なくてはならない肥料となるのです。つまり、この大自然の中で循環型の農業を学ぶためには、必要不可欠な存在なのです。
 来年度、子牛を導入する予定ですが、、補償金は牛舎の建築費用に使ってしまいましたので、その資金のメドはついていません。どなたか子牛を寄付して下さる方はおられませんかー。

 さて、この友愛園の労作教育について、最近、整理し直していく必要性を感じています。児童養護施設の小舎制化、小規模化の流れの中で、今後、どう位置づけていくのか、重要な課題です。今どき500以上ある日本の児童養護施設の中で、米や野菜を作り牛を飼っている所は、友愛園くらいではないでしょうか。アレコレ考えている中で、浮びあがって来たのが、石井十次の「時代教育法」でした。とりあえずそれをなぞってみましょう。

 石井十次が子ども達を相手に教育を始めたのは明治20年ですが、それから10年経過した明治30年に体系化したのが「時代教育法」です。試行錯誤の結果「発見」したものだそうです。

 「単に学問教育のみを授くれば遊惰に陥るの恐れあり、実業教育を主とすれば学問教育を軽んずるの恐れあり」とその葛藤を記しています。

 彼の「時代教育法」とは、「幼年は遊ばせ、少年は学ばせ、青年は働かせる」というものですが、具体的には以下のような内容です。

 幼年時代(10才未満)は、茶臼原の天然界で自由自在に遊ばせる。少年時代(10才から15才まで)は、身体壮健になった少年達を岡山に連れ帰り教育を受けさせる。そして、青年時代(16才から20才まで)は、院内の実業部で実業教育を受けさせあるいは農工商家に奉公させ、社会に自立する資格を備えさせる。

 明治時代のまだ義務教育が小学校だけの時代の話ですので、そのまま現代に通用するわけではないし、石井十次の教育もその後その通り実践できたわけでもないのですが、その原理については、時代を越えて通用すると感じます。

 ここから学ぶべき原理3点あげてみます。

 ① 幼年、少年、青年という成長の段階(時代)に応じて、それに合ったしつけ・教育がなされなければならないということ。当たり前のことだと言われそうですが、その先に「自立に備える」という言葉があることを見落してはいけません。しつけ・教育のすべては自立へ備えるための指導であるということを現代の私達は忘れているのではないでしょうか。幼年時代のしつけ・教育が、また少年時代のしつけ・教育が将来の自立とどうつながっているのかを考えながら指導している親や教育者はあまりいないのではないか。

 ② その三つの時代の中で、一番重要なのが幼年時代です。人生の土台を作ると言ってよい。「天然界に自由自在に遊ばせる」と石井十次は言います。ルソーのエミール教育の影響もありますが、自然こそが教師です。まず心身を健康に育てるということになります。その中で感性の教育(五感教育)がこの幼年時代の労作教育になろうかと思います。

 ③ それからやはり、具体的実業教育の必要性です。戦後の高度経済成長期以降、教育は知育だけを偏重してしまったように感じます。最初の頃は学校がそうなったとしても、まだそれぞれの農家は貧しかったので家の仕事を手伝うことで働くことの基本は学んできました。しかし、今は少年期以降のこの実業教育は欠落してしまっています(職業教育を専門とする学校は別です)。なぜこれほどまでに「実業教育」を忌避するような雰囲気になってしまったのか。おそらく、働くことが常に貧しさと結びついていたからでしょう。その結果、昔だったら高学歴と言われた高校を卒業しても自立できない若者が大勢いますし、大学を卒業しても挨拶ひとつ満足にできない若者が多い時代となっています。

 さあ、石井十次の時代教育法をなぞりながら現代に通用する友愛園の時代教育法を考えてみます。

 幼児時代

 2才前後で入所して来た子ども達に対してやるべきことは、まず全面的な受容(愛着関係の構築)ですが、しつけとともに常に私達が意識すべきは、この大自然を活用しての五感教育(感性教育)でしょう。9月に入って少し涼しくなって、我が園の4名の保幼児さん達は保母さんに連れられながら、秋の草花や虫や木の実探しに度々散歩するようになっています。保育日誌にはこのような記述が見られます。

 「空は秋晴れで真っ青な空が広がっており、飛行機雲が、1本スーと通っており、みんなで見上げる」(923)

 「牛を見つけると、レン君が『口蹄疫から帰ってきたんだね。おかえり!』と言って、親子牛をみんなで見守った」(927)

 このような大人と一緒の日々の体験でが、子ども達の五感に裏付けられた心を養っていくのであろうと思います。トンボを捕まえてみたり、ねこじゃらしで互いの頬をなぜ合ってみたり、さつま芋を一緒に洗って料理して食べてみたり、またそれらの体験をもとに、トイレットペーパーの芯を使ってトンボを作ったり折り紙でバッタを折ってみたりの創作活動をする。友愛社の各保育園では、運動会が終ると野や山に入り、どんぐりや草花を収集して、収穫感謝祭に向けての作品作りを楽しみます。

 小学校時代

 自由自在に野や山で遊び自然物を収穫し感性をみがく幼児の時代と、実際に水田や畑で作物作りをしたり家畜を飼う中・高生時代とをつなぐのが小学生時代です。

 やはり、家庭的な小舎様式の生活の中で、寝食を共にしながら愛着関係を築くのが基本です。

 次におさえるべきは、しつけ、つまり基本的な生活習慣の養成でしょう。そして労作教育分野の指導とはどのようなものになるのか。ベランダで花や野菜を作るくらいのことはやってもよいでしょうが、徹底すべきは掃除指導でしょう。ただ漠然と掃除をさせるのではなく、自立につながる掃除指導とはどのようなものなのか、もう一度職員自身が学びなおさねばならないと思います。私達が子どもの自立支援のスペシャリストであるとするならば、例えば、小学校に出かけて行っても掃除指導について、1時間でも指導できるくらいの専門性を身につけなければならないのであると思います。

 中学・高校生時代

 友愛園の園舎は幼児・小学生寮(天心館)と中学・高校生寮(三友館・生命館)とを別にしています。中高生になったら、たえず自立を前提とした指導ができるようにです。最初にも書きましたように、小規模化、小舎制化の流れの中で、労作教育をどう位置づけていくかが課題です。限られた時間と人数の中で勉強とスポーツと労作とのバランスをうまく取っていかねばなりません。私は、今後、茶臼原自然芸術館(障がい者就労継続支援B型事業)の利用者の方々との協同作業により乗り越えていけるのではないかと考えているのです。23年の間にその役割分担を整理できたらと思います。

 927日に来訪された食生活ジャーナリスト横田哲治氏の著書「食を守る」の中に次のような記述がありました。

 「伊勢神宮は御園という畑で野菜や果物を栽培している。神様にお米と野菜・果物をお供えする神田は1000年の歴史を有しているという。」

 また、929日付の読売新聞では、天皇陛下が皇居内の水田の稲刈を手刈りでされたと写真入りで報じていました。

 米や野菜や果物は天の神から恵み与えられるものだとする日本人古来の感性を私達は大事にしたいと思います。そういう恵みにこの大地の上で直接立ち会えることを幸せだと感じ、また誇りとする子ども達に育ってほしいと願っています。ただ単に、欧米流の小規模化の流れをうのみにするのではなく、日本型の自然主義・家族主義に根ざすそれを目指したいと思います。

 現在、高鍋農業高校で学ぶ友愛園児は55名中8名です(小規模含む)。来年度農業大学校に進学予定の高校生も一人います。今後、ますます友愛園の農業高校生は増えていくでしょう。若竹はこの大地でこそ育つのです。都会のコンクリートの上では決して伸びてはいきません。


                            第234号
                         ―2011年9月発行―

ssssssssssssssssssss価値観の転換?

                園長 児嶋草次郎

                   

 自然の猛威は、留まることを知りません。 9月に入って関西地方を襲った台風は、和歌山、奈良、三重県などに甚大な被害をもたらしています。「またか」と溜息をつきながら、静かな宮崎の秋を迎えようとしています。今年の友愛社の米は、雑草に負けることなく、実を豊かにつけてくれました。感謝です。
 さて、今回の通信には、828日(日)の「石井十次交流会」での理事長としての挨拶を掲載させていただきます。

 東日本大震災が起きてからもう半年になろうとしています。今朝の新聞では、死者15735人、不明者4467人、避難生活をしている人は83099人だそうです(読売新聞)。今だに行方不明者の捜索活動をされているのでしょう、毎日死亡者の名前が新たに出ています。
 色んなことを考えさせられます。マスコミ等の報道の中には、頭を抱えこんでしまうような刺激的言葉にも出くわします。

 「価値観の転換が必要である」
 「歴史の大きな節目だ」
 「第二の敗戦だ」

 これらの言葉を、国民一人ひとりはどのように受け止めているのでしょうか。皆様はどのように受け止められますか。
 騒いでいるのはマスコミだけでみんながあまり深刻に考えてないとすれば、数年もすれば震災前のようにまた流された生活にもどるのかもしれません。
 「価値観の転換が必要」と言ったって、毎朝来る新聞の折り込み広告やテレビ番組は何一つ変るわけではありません。私達は、今の物質的豊かさを捨てることはできないのです。価値観の転換とは一体何のことを言っているのでしょうか。
 「歴史の大きな節目」と言ったって、政治家は、相変わらず内輪もめばかりしています。国が大事なのか、政党が大事なのか、彼らは何を考えておられるのかよく分かりません。
 「第二の敗戦」と言われたって、スーパーに行けば、あり余るほどの食料品が並んでいます。東北の海沿いの町は廃墟になったけれども、この宮崎の町は、表面的には一年前と何も変わりありません。実感は湧かないのです。

 個人としてはワケがわからないままでもよいのかもしれません。しかし、石井記念友愛社としては、そんな曖昧なことでは許されないと思います。地域社会の福祉の充実・発展に寄与するのが社会福祉法人の使命であります。福祉というのは、本来、天災・地災・人災に遭って助けを求めている人々に手を差し延べようとする行為でありました。今、東北の現地では、様々な支援が行われています。全国から多くのボランティアも集まっているようです。

 そこから遠く離れたこの宮崎の児湯・西都の地で福祉の仕事に従事している私達は今、何をすべきなのか。電気、ガス、水道が止まり、食料も限られた状況の中で、地域の被災者も多数受入れている福祉施設において、職員が泊りこんで被災者へのサービスに奔走している姿を報道の中から読み取ることができました。これらの支援活動は、施設だけに限りません。学校においても、その他の避難所となっている公共施設においても同じです。これが福祉の原点の姿であります。死ぬか生きるかの極限状況の中で、被災者一人ひとりにほんとうに寄り添おうとするならば、一緒に泊り込んで支えるしかないのだと思います。危機的状況が、人間に支え合う助け合うことの原点の姿を求めるのだと思います。岡山孤児院の救済活動もまさにそのような原点の姿に貫かれたものでした。ここを見落さないようにしなければなりません。復興が今後進んでいき、仮設住宅等が完備されれば、その原点の姿は見えなくなっていくのだと思います。

 話を元にもどします。

その歴史の大きな節目となる第2の敗戦に直面し、価値観の転換を必要とする時を迎えているとするならば、それ相応に私達なりに分析し、対処していかねばなりません。
 石井十次が生れてから150年近い年月が経っていますが、ごく単純にこの150年を振り返ってみます。
 日本が江戸を中心にして一つの文明・文化を築きあげていた頃、それなりの大義名分(野蛮人を教化する)を掲げて西欧列強は植民地主義に邁進していました。その手先が度々日本にも訪れるようになり、危機を感じた一部の日本人達が日本の国家体制を教える必要性を感じ、明治維新を成しとげました。
 西欧文明を受入れることで日本も徐々に力をつけ、奇跡的にも日露戦争に勝利し外圧をはねのけることができました。それで西欧列強への仲間入りを果たしたのですが、不幸にも江戸時代考えもしなかったその植民地主義をマネするようになり、朝鮮・中国地方に侵略。アメリカ等列強とも利害対立し、敵に回することになってしまいます。そして無謀にもアメリカ等列強やアジア諸国相手に戦いに挑んで負けてしまいます。日本の長い歴史の中で初めての敗戦でした。その結果江戸末期、日本人達が一番恐れていた言わば日本の“植民地化”が、短い間ではありましたけど現実化してしまったのです。

 1951年(昭和26年)6月、サンフランシスコ講和条約の締結により再独立し、それから60年という年月が経っています。
 これが、この150年ほどの歴史であります。その間におきた天災、地災、人災等による被災児救済活動等が岡山孤児院の歴史であり、その後の石井記念協会の歴史であり、石井記念友愛社の歴史であります。我が国における歴史の大きな節目は何度もありました。それでは第二の敗戦とは私なりに解釈するならどういうことになるのか。

 西欧文明を受入れて経済的に豊かな国家をめざしたことはよかったのかもしれませんが、「殖民地主義」という価値観を受入れてしまったことは失敗でした。その結果、世界を相手に戦争をすることになってしまいました。 これが第一の敗戦です。
 昭和の戦争後、廃墟と化した国土の中から日本人はそれこそ「がんばろう日本」の心で立ち上がり、わずか50年ほどで世界で1,2位を争うほどの経済大国に成りあがりました。私達国民も、暖衣飽食の生活を送ることができるようになりました。ありがたいことです。そして、今回の大震災であります。
 この数十年の間に、何か大きな勘違いを犯してきているのではないか。先ほどの「植民地主義」というような西欧の間違った価値観を、いつの間にかまた受入れてしまっているのではないか。

 今回の大震災後、この地震国の日本に原子力発電所を次々に作っていったことが果たして良かったのかという反省が、その専門家からも出され始めています。巨大な防波堤を作ることで津波を防げると思い込んだことが土台間違っていたのではないかという反省も出ています。
 つまり、天災・地災の多いわが国において、ながい歴史の中で自然と共生するという文化を築き上げて来たのに、昭和以降文明が高度化する中で、いつの間にか、自然は人間が支配するものであるという西欧の価値観をそのまま受入れてしまったのではないか。その結果今回の震災が甚大な人災をも引きおこしてしまった。そして、多くの方々が命や故郷を失うことになってしまった。これがもしかしたら第二の敗戦ということなのかもしれません。

 価値観の展開が必要であるということは、どういうことなのか。この150年ほどの間に、我が国は常に西欧の価値観に流されて来ています。ここで立ち止まってもう一度それらをしっかり吟味し直し、この日本の歴史、文明、文化、自然に合った生き方とは何なのかを考える時であるということなのかもしれません。江戸文明は260年ほど続きました。その中にも私達が学ぶべきものはたくさんあるでしょう。
 石井記念友愛社の歴史はわずか65年ほどです。とは言っても、長い日本の歴史、文化の中で一つの小さな団体として生まれたのであり、当然その歴史を背負い文化の枠の中で生まれています。岡山孤児院とは別団体とは言っても、岡山孤児院解散後その財産を引き継いだ石井記念協会をさらに引き継ぐ形となっています。当然それらの歴史や文化から自由であることはできません。石井記念友愛社の定款の中にもその目的として、「石井十次氏の人格と、その事業を永久に記念するを以て目的」とすると記されています。石井記念友愛社は、石井十次の創設した岡山孤児院の精神や事業を、昭和20年の敗戦状況の中で再興するために生まれたものです。それから遅々とはしておりますが、65年の間に、3市4町に渡って事業は広がっています。

 私達の基本理念は石井十次の言葉です。

 「天は父なり人は同胞なれば互いに相信じ相愛すべきこと」これは、大正2年に発表した茶臼原憲法の第1条です。

 そして、方針は、自然主義、家族主義、友愛主義の3本柱です。この3本柱の重要性については、今回の大震災で再認識させられます。この地球の自然の一部である人間がこの目の前の大自然と共生していくためには、自然への畏敬と感謝を育てることが第一であります。これが自然主義です。
 欧米から入った個人主義が家族をもむしばんでいます。家庭崩壊、家族崩壊が進む中で、今回の大震災がおき、多くの方々が家族の絆の大切さについて気付かされています。イザという時頼りになるのは家族・親族であります。人間が生きていく上において、やはり、拠り所は家族であります。そのことを再認識しながら、私達は今後もこの家族主義を守っていかねばなりません。 その家族の支え合い、助け合いに恵まれない場合、互いに他人同志が支え合い助け合うというのは人の道であります。これが友愛主義。東北の被災者の方々が、じっと耐えながらまた自己規制しながら互いに助け合っている姿は、世界の人々を感動させました。関東大震災の時には暴動が起きたじゃないかとあげ足を取る人もいますが、この助け合いの和こそが日本人本来のDNAなのかもしれません。寝食を共にしながら助け合うという本来の友愛の姿を、石井記念友愛社はこれからも大事にしていきたいと思います。

 さらに、石井記念友愛社では、到達目標として、「友愛の地域社会づくり」を掲げています。理念と三つの方針を柱としながら、私達に与えられたそれぞれの職場で、地域社会作りに福祉的立場で貢献していく、それが私達の使命であります。
 私達石井記念友愛社は先ほどの「価値観の転換」にどう向き合ったらよいのか。今の理念・方針等の説明でもお分かりのように、私達の価値観は、今の欧米化した日本の価値観のむしろ反対側にあるのかもしれません。石井記念友愛社の自然主義、家族主義、友愛主義は、転換するどころか、むしろアピールしていかねばならない日本の歴史や文化に根ざす価値観である。今こそ石井十次の理念の出番だ、そういう気持で、より積極的に地域に向き合っていかねばならない時であると思います。

 現実の福祉社会に目を向けると、「社会保障・税一体改革」という標語を掲げて、国は保育制度を変えようとしています。児童養護施設も高齢者施設もこれからいや応なく変っていくでしょう。その流れの中で、守るべきもの変えるべきものをしっかり見極めながら、一歩ずつ前進していきたいと思います。そして、未来へとつなげていきたい。日本型の地域福祉を追求していきたいと思います。これからも御指導・御支援よろしくお願い致します。


                            第233号
                        ―2011年8月発行―

              魂の画家・野十郎

                園長 児嶋草次郎

                      

 台風の影響で、この夏は雨の多い日が続いています。東北の方では、洪水で家や田畑を流された人々もいるようでお気の毒です。それに比べれば、私達も愚痴は言ったらいけないのかもしれませんが、溜息は何度か吐いてしまいます。園周辺の雑草の伸びが半端ではないのです。刈っても刈っても、取っても取っても、雑草は次から次に芽を出し、すごい勢いで伸び続けます。高温多湿は、雑草達にとってベストの環境なのです。7月、畑の葉物野菜類は雑草にほとんどおおわれ、腐って消えてしまいました。生垣やツツジ等の庭木類もカズラにおおわれてしまい無残な状態となっています。これらの雑草との戦いにエネルギーを向ける余裕が、私達や子ども達に充分になく、対応は後手後手となり、悔しい思いをしているのです。

 これら雑草の生命力について、都会の人達に説明しても、分かってはもらえないでしょう。大都会の公園等多額のお金と人を使ってキチンと管理され、花壇等も花々が咲き終わらないうちに次々に早めに植え替えられていき、一年中花盛りです。そういう環境の中で育つ子ども達は、自然というのは、人間によってコントロールできるものだという感性を身につけていくに違いない。管理された自然環境の中で育った人間と、この茶臼原の大自然の中で、必死に自然の雑草達と戦いながら育った人間とが、「自然」について語り合ったとしても、それぞれがイメージする世界は随分違うものだろろうし、かみ合わない部分は多分にあるに違いない。都会人が考える「自然との共生」と我々田舎人の考えるそれとの間には随分大きな差があると思います。

 その差をあまり深刻に考えずにすんでいるのはなぜだろう。都会人の価値観が世の中を支配しており、私達田舎人は、その価値に合わせて生きていて、ほとんどその差について語ることもないからなのでしょう。私達には語る能力も技術もないのかもしれません。このようなことは、福祉の世界についても言えそうです。

 そんなストレスを感じながら過ごしていた7月上旬、西日本新聞で、画家・髙島野十郎という人について3回にわたって紹介記事が連載されました(「凝視の先に」7月12日、13日、14日)。私の知らない画家でした。「たった1人、千葉の畑の掘っ立て小屋のようなアトリエで絵を描き、無名のまま老人ホームで死んだ。」というような文が目に止まり、また、それらの文章の中に収められた3枚の絵「すいれんの池」、「流」、「萌え出づる森」も非常に印象的でした。その時はとりあえず斜め読みして切り抜き、書類の上に置いておきました。普通はいつの間にか忘れてしまい、書類の山の中に埋もれてしまうのですが、なぜかこの3枚の切り抜きは、その存在を主張し続けます。気になって仕方ないのです。

 「自分が視ることで何が見えてくるかを極限まで追求していた。そして名利を求めず世俗を断ち、画道に邁進」

 「自分は対象物を描いているのではない、対象物と自分との間にある空気を描いている。」
(野十郎の言葉)

 「野十郎は、最も自然と近い場所で、自給自足に近い形で生活することで、そこに顕現する世界を描こうとしたのだろうか」

 時々、書類の中に埋没しかけている切り抜きを読み返しながら、気になる言葉を反芻します。

 そして、7月末、ちょうど熊本で研修会が開催され一泊で出かけた時に、久留米まで足を伸ばし、その展覧会(「髙島野十郎 里帰り展」)を見て来ました。軽々しく「自然との共生」などと言うけど、この野十郎という絵描きの絵から何かヒントを得られるのではないか、そう直観したのです。石井記念友愛社の「自然主義」を考える上でも、何か大切なことをこの人の絵が教えてくれるかもしれない、そうも予感しました。

 髙島野十郎、1890年(明治23年)、福岡県久留米市で5男2女の4男として生まれる。父親は酒造業を営み裕福な家庭だったようです。美術館で求めた図録の中に明治36年に撮られたという男兄弟5人で映っている写真が載せられていますが、それぞれが違った方向を向いて立っており、自意識過剰な少年達だったのだろうと感じさせられます。ちなみに長男は、家を継がず詩人を志し、同郷の青木繁とも交友があったとか。

 野十郎の本名は彌壽(やじゅ)。野十郎は「やじゅうろう」と読むのだそうです。私は今でも「のじゅうろう」と読んでいるのですが、「野獣」の野(や)よりも「野原」の野(の)の方が響きがいい。いつから野十郎と名乗るようになったのか。おそらく画家になりたかったのに許してくれなかった武士あがりの厳しい父親への反発もあるのでしょう。そしたらいっそのこと「のじゅうろう」にしてくれたらよかったのに。県立中学明善校時代(18歳)に取った絵描き姿の写真も図録には載せてあります。絵筆、パレットを持ち、画架の前に腰かけ、いっぱしの画家気どりです。それらの道具類を写真屋に持ち込んで取ってもらったのでしょうから、画家へのあこがれは相当強かったのでしょう。自分の未来に大いなる画家としての野望を描いていに違いない。

 東京美術学校への進学は父親は断固として許さず、名古屋の第八高等学校へ進学。おそらく相当な葛藤があったことでしょう。そして、東京帝国大学農学部水産学科へと進みます。成績優秀で、学費免除になる特待生にも選ばれたそうです。大正5年、主席で卒業。成績優秀者だけに与えられる恩賜の銀時計を野十郎は辞退。2、3年大学の助手をした後、退路を断って画家に転身。その時にはすでに、両親は亡くなっています。両親や回りの人達は、学者となってエリートコースを歩く姿を描いたのでしょうが、親の期待するようには生きないという強い決意が銀時計辞退という行動を選択させたのでしょう。

 さて、彼の絵の世界に入っていきます。会場を一回りして、感動とともに深く考えさせられます。確かにその世界は精緻で徹底した写実主義に貫かれているけれども、深い精神性のようなものを感じます。一言で言うならば、「この強さは一体何だろう」という思いで立ち止まってしまうのです。若い時の絵を見ていると、岸田劉生、デューラー、ゴツホ等からの影響を感じ取ることができます。40歳から3年間ヨーロッパを巡った時の絵を見ると、やはり印象派にも学んでいます。強い自負心を持ちながらも、彼は謙虚に学ぼうとしたのでしょう。ヨーロッパに行く前に、彼は兄嫁に、描きためていた百枚ほどの絵をすべて焼却することを頼んだとか。

 しかし、彼は、ヨーロッパに行っても流されることはありませんでした。自分の精神性や技法に確信を持ち、さらに精進しようとするのです。そして、70才をすぎると千葉県柏市の自然豊かな田舎に小さなアトリエを建て、電気もガスも水道もない中で、晴耕雨描の生活を続けていくことになります。ほとんど世の画壇と交流することもなく、妻もめとらず、自然だけを友として弧高に生きた生涯でした。最後は老人ホームで85歳で死去。

 彼の強さとは何か、私は次の言葉に集約されるような気がします。

 「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事…それは洋人キリスト教者には不可能」(彼の最晩年の『ノート』に書き記されているという)。

 これが彼の感性であり確信であるに違いない。花一輪、砂一粒であっても、人間と同じ生命体であり存在である。だから、いったん自然や対象物に向き合ったら第一印象で決めつけるのでなく、そのすべてにじっくり心を注がねばならない。その姿勢・心くばりが、彼に言わせれば「慈悲」ということになるのです。目の前には神仏の慈悲に照らされた世界が広がっているのであり、私達人間も受容的心で向き合っていかねばならない。だから彼は徹底的に凝視し、観察し描こうとしたのでしょう。否、描くと言い方は彼の場合正しくないのかもしれない。

 私は小学生の頃、病気で就床している時、金縛りにあったことがあります。その時突然体が動かなくなり天井板の年輪がぐちゃぐちゃに動いて、自分を襲ってくるような恐怖感を抱き、母を大声で呼びました。例えば「流」という作品をじっと見つめていると、その時のことを思い出します。ゴツゴツの岩の間を流れる渓流を描いた絵ですが、この絵を見た17歳の少年が「水が流れているように見えます」と言ったら、野十郎は「岩が動いているように見えないかなぁ?」とがっかりした表情で答えたということです。このエピソードは西日本新聞(713日付)で紹介されていました。さらに、野十郎は、その少年に「自分は対象物を描いているのではない。対象物と自分との間にある空気を描いている。」とも言ったという。

 私は彼の絵を次のように解釈します。おそらく、彼は野を歩き回り、ここだと感じた場所に来たら、そこに腰を下して一日中、いや2日でも3日でも対象物(自然)を見続ける。私は奄美の田中一村は、ウサギの眼で自然を見たと表現したことがありますが、野十郎は違う。「流」を見ても感じるのですが、慈悲の心で見つめているうちに彼は魂が抜け出していくような体験をしているのではないか。魂を自由に浮遊させながら魂の目で対象物に触れながら一つ一つ確認しようとしているのではないか。 

 描くというより一つ一つの対象物の中にいる神を写し取るという作業なのかもしれない。絵としては確かに視点はこちら側にあるのですが、心点というようなものは、この絵の世界のまん中にある。魂で描いたので、「岩が動いているように見えないか」と言ってしまったのではないか。没後10年経って、発掘のきっかけとなったという「すいれんの池」も、心点はこの池の真上にある。だから私達がじっと見ていると、この池全体に意識は広がっていく。

 夜は、ありあまるほどの時間と孤独に対峙しながら、じっと月やローソクを見続けたのでしょう。月の絵は、夜空を自由に彷徨する魂を描いたと言えるし、ローソクの絵は、自分の魂(心)の中で燃え続ける絵画への思いを描いたとも言えるでしょう。

 彼のような生き方は私達凡人にはできません。しかし、彼が描き残した絵から、自然との付き合い方を学ぶことはできる。受容とか傾聴とか非審判的態度とか、私達が福祉の世界で使う原理がありますが、まさに自然に向き合った時も、この姿勢は必要なのでしょう。それらの言葉は西洋から入って来たものですが、野十郎的に言うならば慈悲です。私達は自然を支配できるわけではない。同じ自然の一員として、それぞれの風土に合った形で付き合っていかねばならない。自然との共生と、私達人間同士の共生との間には差はないということなのでしょう。この大自然の中で、子ども達とともに生活するということはどういうことなのか、もう一度整理し直したいと思います。


                             第232号
                          □2011年7月発行□

sssssssssssssssss s価値観の葛藤(かっとう)

                園長 児嶋草次郎

sssssssssssssssssssssssssss

 白アジサイが美しく元気に咲く611日(土)から、18日(木)、72日(土)と3回(あと1回、716日も計画されています)、石井友愛社保育園9ヶ園の主任主催の法人内自主研修が開かれ、各回入れ代わりで20人~30人ほどの新人を中心にした職員達が、石井十次資料館に集まりました。私は、最初に理事長として、静養館で20分程度の話をさせていただきました。職員達は、資料館見学の後、茶臼原自然芸術館、石井記念のゆり保育園、石井記念ひかり保育園と視察し、最後に石井十次墓地にお参りして、またそれぞれの保育園へと戻っていったようです。

 私は、この自主研修が主任保育士達の発案であることに感心し、また感謝もしました。理事長講話も彼らからの依頼というか指示です。このような職員主催の勉強会は、石井記念友愛社の歴史の中でもおそらく初めてのことであり、画期的なことです。施設数も増え、職員数も300人に近づくなかで、このような気運が出てきたことは、理事長としてありがたいことであります。

 私に与えられた時間は短かったのですか、皆さん静養館の畳に正座していただいて、“寺子屋教育”のような雰囲気の中で、石井記念友愛社の精神(理念・方針・到達目標等)について話させていただきました。石井記念友愛社では今年度から倫理綱領「私たちの使命」・「私達の行動倫理」を定めており、それについてもちょっとだけ触れました。職員達も、3回目から、その倫理綱領をラミネート加工したものを持って参加していました。今の倫理綱領は私の試案と言ってよく、今後、職員達自身によって、時間をかけてあるべき倫理に結実させていっていただければと願っています。

 講話は、この度の東日本大地震の話から始めました。テレビや新聞等から得られる情報から、反省し学ぶべきこととして、私は現在三つにまとめています。

 一つは、やはり、自然への畏敬が足りなっかたということです。畏敬の畏とは恐れるという意味であります。現代科学、土木の力でこの大自然をコントロールできると、日本人達は思い込んだのであります。万里の長城にも負けないような大堤防を築けば、大津波が来ても大丈夫と信じこんだのです。もしこの堤防がなければもっと多くの方が逃げて命を失わずにすんだことでしょう。原子力発電所も絶対大丈夫と言われておりました。国はまだ曖昧にしていますが、おそらく故郷へ帰ることをあきらめなければならない人が大勢出て来るのではないでしょうか。

 二つ目は、家族・親族の絆の大切さというか、かけがえのない家族・親族の愛に多くの方々が目覚めさせられているのだろうということです。核家族化、個人主義化が進行している世の中ですが、イザという時、やはり支えとなる人は、家族・親族であります。両親を失った子どもが200人前後出ているようですが、今のところ、多くは親族が引き取っているようです。

 そして三つ目が、人々の支え合い助け合いの必要性です。このような大災害がおきた時は、身分を関わらず助け合えとは、江戸時代の高鍋藩主秋月種茂もその「高鍋藩士規」の中で述べています。我々の先人達が繰返し確認し合いまた実践した人の道だと思います。おそらく、もはやDNAにも刻みこまれているのでしょう。家族でも支えきれない時は、みんなで助け合う。その行動は、日本人の美徳であるのです。「福祉」が生れるあるいはボランティアという言葉が移入されるずっと昔から、日本人達は助け合って生きてきたのです。今回東北の方々は、その美しい姿を私達に示して下さいました。

 実はこの三つは、石井記念友愛社の方針、「自然主義・家族主義・友愛主義」にそのまま重なるのです。この方針は単なる一法人の自己満足的標語ではなく、人が生きていく上において常に掲げるべき理念であり進むべき方向であると、私は今回発見できたような気がするのです。進むべき方向を示してくれている石井十次を初め先人達に感謝したいと思います。

 「自然主義」は、次のように説明しています。「日本の自然・風土・文化・農業との触れ合いを通し、人格と体を養う。自然教育は、情操を豊かにし、敬天の感性を育てる。」そして、その実践目標として三つ掲げています。「①自然への畏敬と感謝の気持ちを育てます。②食育教育を実践します。③自然教育・労作教育

を実践します。」人間は自然の一部であり、自然を克服するなど思い上がった気持をもつ人間を育ててはならないのです。

 「家族主義」については次のような説明です。「相信・相愛の原点は、家族の絆の中にあり、親を敬い、祖先を敬うことから、心の成長は始まる。」その実践目標は次の三つです。「①家族への感謝の気持を育てます。②祖先への敬いの気持を育てます。③家族の絆を大切にします。」

 私達は、子ども達が親に対して「ありがとう」と素直に言えるように育てていかねばならないのです。私達はあくまでも支える側であり、主人公は子ども達とその家族です。

 石井記念友愛園は、平成9年に園舎を建てかえることができました。構造材のほとんどは、この石井記念友愛社の山林から切り出したものです。石井十次を初めこの山を守り育てて来た職員達が100年以上にわたって植え続けてきた木なのです。木は植えてから使えるようになるまでに50年以上の年月が必要です。日本人達は代々木を植え続けて来ましたが、自分の欲望充足のために植えたのではありません。孫や曾孫のために植えたのです。祖先を敬うとはそういう姿勢に対してだと思います。先人達の御苦労のおかげで、今、潤っていることがいっぱいあるのです。今の日本人の多くが自分達の目先の欲望を満足させる事しか考えてないように感じることが多いのですが、100年後、果たして、我々は感謝される存在になり得るのでしょうか。

 三つ目の「友愛主義」の説明はこうです。「人は皆同胞。自立へ向けて、互いにしつけ・教育・支援し合い、そして、先人達の築いた文化を次世代に伝えていく。」そして実践目標はこうなっています。「①養育・教育・自立に関して、できるだけ支援(相談・援助)をします。②日本の家庭の文化、お年寄り、障がい者を大切に守ります。③子ども達の自立に向けてのしつけ・教育を実践します。」

 この「友愛主義」は、日本の歴史に裏付けられたものでなければならないと私は考えています。今、日本ではノーマライゼーションとか、ソーシャル・インクルージョンとかが最先端の福祉の思想だと言われていますが、この友愛主義の中には両方含まれます。

 後先になりましたが、石井記念友愛社の基本理念は「天は父なり人は同胞なれば互いに相信じ相愛すべきこと」です。石井十次が大正2年、茶臼原憲法の第1条として残した言葉です。この憲法は第1条が理念、第2条が方針、第3条がルールであると私は位置づけており、第1条の理念は、時代を超えて生き続けていかねばならないと考えています。この茶臼原憲法は静養館の壁に大理石に刻まれて埋めこまれており、その意味についても我々は考えていかねばならないのでしょう。静養館が焼けたらすべては灰となってしまいますが、この憲法だけは、灰の中から掘り出すことができるのです。永久に残せということです。

 精神の最後、到達目標は、「友愛の地域社会つくり」です。その説明は以下のとおりです。「福祉施設が、縦割り社会の中で個々に働くのではなく、関係機関、や住民と一体となりながら、様々な社会資源との連携の下、年齢や障害の有無を越えた大家的共生社会の実現をめざします」。「大家家族共生社会」が、日本の歴史や文化に根ざしたソーシャル・インクルージョンであると私は考えているのです。石井記念友愛社は現在幸いにして子ども、お年寄り、障がい者支援の施設を持つに到っています。これから、本物の複合・統合の施設作りをめざしていかねばなりません。そして、その施設がその地域の大家族的共生社会作りのための拠点となるのです。

 次に倫理綱領に入らせていただきます。理念や方針は、言うならば、経営者側から職員達に対して提示されるもの。職員は受け身であってもよいのかもしれません。しかし、倫理綱領は違います。職員自身の福祉従事者としての行動を規制するものとなります。

 社会には様々な価値観が氾濫しています。情報が満ち溢れ、常に私達は、物や金や性などの誘惑の前に立たされながら仕事をしていると言ってよいでしょう。どう自己コントロールしていったらよいのか、迷うことも多くあります。何を真・善・美とするのか、常に問われ続けています。倫理綱領とは、そのような価値観の動揺の前にキチンと立ちふさがるものです。福祉専門職としてのあるべき姿を示し、それに同一視することを要求するものなのです。社会福祉士、介護福祉士等多くの専門職集団が綱領を取り決めています。

 例えば、介護を職業に選んだ若者が実際に現場に入って様々なトラブルに直面する。自由気ままに生きて来たお年寄りの横暴な言動に振り回される。お年寄りの衰えた肉体を素直に受け入れられない。また、自分が求める給料との間にかなりの格差がある。一般的には3K職場だから人材がなかなか集まらないと言われたりしましたが、価値観の葛藤についてはあまり触れられていません。理念は抽象的で自分から離れた所に掲げられているのに、倫理となると、常に自分にまとわりついて自分の行動を抑制しようとする。職員にとっては、そんなイメージでとらえられているのかもしれません。

 大事なことは、まず自分自身の価値観に気付くことでしょう。持って生まれたものもあるのでしょうし、育ちによっても違ってくるでしょう。勉強は一所懸命して来たのに、自己認識のできてない若者がけっこういるようにも感じます。まず自分を知り、その自分をありのままに受け入れる。そうしてから倫理綱領の前に立てば足りない部分や改めた方がよい部分等が見えてくるのかもしれません。そして現場に立つ。様々な矛盾や理不尽なトラブルに直面した時、距離を測りながら冷静に対応していくことが出来るのではないでしょうか。そういう時一番大切な支えは、やはり「世のため人のために少しでもお役にたっているという誇り」でしょう。その誇りが、迷いや不安や葛藤は乗り越えていけるー。

理念や方針、そして倫理の解決の解説で紙面がつきてしまいました。今回、職員達の自主研修について書いているうちに、私の講話に加筆するような内容になってしまいました。

 人材確保が困難な時代となって来ています。縁あって就職してくれたのに途中で去っていく職員も多くいます。価値観の違いがその原因であるのなら仕方ないことですが、私達の人材養成が未熟であるとすれば、大いに反省しなければなりません。静養館に並んだ若い職員達、そしてそれぞれの園で働いている職員達を思い出しながら色々考えさせられています。自分の人生のためのも、世のため人のためにも、しっかり自己コントロールしながら、それぞれに地道に歩んでほしいと願っています。



                               第231号
                             □2011年6月□

ssssssssssssssssssssssssss感性

                園長 児嶋草次郎

                      

 久しぶりに倉敷の古い町を散策しました。朝5時半、すでに太陽は瓦屋根と漆喰(しっくい)壁の多い狭い路地にまで春の心地よい光を注ぎ始めていて、私は、ホテルを出ると新緑と新鮮な空気に身をひたしながら、気の向くままに歩き回りました。こういう伝統的文化の町を自由に歩くと、感性が癒されます。

 柳の下の堀を見つめながら大原美術館の方へ向い、児島虎次郎デザインの石橋を渡ってある場所へと足は動いています。虎次郎亡き後、未亡人となった友と遺児達(その中には私の父も含まれます)が一時期身を寄せた住い。屋根の低い粗末な建物ではありますが、倉敷へ行く度に心はまずそちらへ引き寄せられます。寺の石段を登ったところにあるその建物がまだつぶされてないことを確認して、少々安堵して気持ちはまた別の方向へと向かいます。

 今回は、そのまま石段を登り切り、観龍寺の山門をくぐります。すでに朝のお勤めが始まっており、読経の声が境内に低く静かに響いています。庭で掃き掃除をしている檀家と思われるボランティアに「おはようございます」と挨拶をして、奥の墓地に入っていきます。大原孫三郎氏のお墓もこのどこかにあるのだろうけれども、まだお参りしたことはありません。この空間にはもう何度も迷い込んでいるのに、まだ一度も挨拶できてないことは申し訳ないことです。

 青葉若葉の木々を見上げているうちに、気がついたら、いつの間にか阿智神社の境内に入っており、ここでもやはり、数名のボランティアが庭や道を掃き清めておられます。自然と神と人間とが静かに交錯し合う神聖な空間の中で、無言でほうきを動かしている姿を美しいと思います。こういう人達がいる限り、この町は生き続けていくのだろし、こういう町が存在する限り、日本人の魂は滅びることはないのだろうとも感じます。

 お寺の鐘が6時を伝え、私はお参りをすませると、階段を下りて、古いアーケード街の方向へと歩き始めます。ちょうど、友愛園の子ども達も、目覚めて方舟館や正門の周辺を掃除し始める頃ですー。

 今回の一泊旅行は、大原美術館で開催された「生誕130年児島虎次郎展」を見るためのものでした。宮内庁から「なさけの庭」が帰って来ます。フランスのポンピドーセンターから「秋」が帰って来ます。もう会えるかどうか分からない作品ですので、石井記念友愛社後援会「石井十次の会」の主だった皆様にも声をかけ、約40人のツァーを組んで見に来たのです。ちょうどこの春、九州新幹線が鹿児島から博多まで全線開通し、この新幹線の旅を楽しむことも目的としました。

 514日(土)、貸切バスで朝6時ちょっと前に石井記念友愛社を出発。途中、高鍋、宮崎、都城等で会員の方々が加わり、鹿児島中央駅に着いたのが10時前。新幹線効果でしょうか駅ビル内は大変なにぎわいです。一瞬博多か東京にでもいるような気分になってしまいます。皆さんそれぞれ駅弁を買って、1053分発さくら410号に乗り込みました。新型車両で指定席でしたので、ゆったりと座れました。添乗員より博多で乗り換えてから弁当は食べるようにと指示があったのですが、皆さん待ちきれず走り出すとまもなく食べていました。博多到着は1232分。すぐひかり560号に乗り換えて1237分発、岡山駅到着は1429分でした。約3時間半の列車の旅でした。

 約2時間ほどで九州を駆け抜けるのですから、恐ろしい時代となったものです。昔、学生時代、夜行列車に乗って東京に向かった頃に比べると、隔世の感がします。あの頃は、自分の呼吸に合わせて汽車も走ってくれ、風景を楽しみながら、色んなことを考えまた妄想もめぐらしました。今回の新幹線の旅はどうだったでしょう。豪華な車内で食べたり飲んだり、隣同士でおしゃべりし合ったりの楽しさは味わうことができましたが、車窓から見える風景は、やはり展開があまりにも速すぎ、気持がついていけませんでした。

 さて、岡山です。岡山駅から貸切バスで約1時間ほどで倉敷の町です。この日に見学したのは、倉敷中央病院でした。このように団体で見学させていただくのは、3度目か4度目か、以前「友愛通信」にも書いたことがあります。東洋一をめざした病院だけあって、行く度に進化しています。

 大正12年に大原孫三郎によって創設された病院です。大原は設計するにあたって、「治療本位」、「病院くさくない明るい病院」、「東洋一の理想的な病院」という三つの理念を揚げたそうです。その理念が90年近い歴史の中で、時代の変化に適応しながら、見事に具現化されてきているのです。現在の理念は次の三つだそうです。「患者本位の医療」、「全人医療」、「高度先進医療」。2番目の「全人医療」については、次のような説明がなされています。「患者の身体(からだ)と心を癒し、いのちの質を支えるために、知識・技術・人間愛を結集して総合的な医療を行います。」

 土曜日で、おそらくお休みであったろうに、部長の藤本様と他2名の方が私達を3グループに分けて案内して下さいました。4月現在で病床数は1151床、職員数は約3000名、医師は427名、看護師は1285名、日本でも一番を争うような規模の病院のようです。技術や規模を競うだけなら、私達にとって見学する理由とはなりません。その広い空間の中に、先ほどの言葉を使うならば、「人間愛」を基調とする「心を癒す」しかけや設備が各所にちりばめられているのです。そこを観察することで、私達の仕事を見直す感性も磨きなおすことができます。案内の方は、「石井と大原の思いのこもった病院」と表現して下さいました。どこに石井の思いが隠されているのか、そういう視点を持って見学すると楽しみも倍増します。

 今回、新しい発見もありました。この病院で最大の癒し空間と言ってよい温室

が、児島虎次郎のデザインだというのです。その原画も最近発見されたそうです。私にとってはうれしい話でした。福祉や教育や病院関係者は、大原美術館を見学したら、この病院に寄って温室でコーヒーでも飲みながら芸術と現実との融合の世界を体験するといい、そうすればもっと心は癒されるだろう、そう思います。

 夕食は、私の兄(塊太郎)の紹介の店で皆さんと一緒に会食しました。兄も加わり、なごやかに交流を深めることができました。蔵を改造した店で魚も新鮮で、皆さん満足されているようでした。

 515日(日)は、まず大原美術館の堀をはさんで反対側にある有隣荘(大原孫三郎別邸)を特別に見学させていただきました。案内は大原美術館の学芸課長の柳沢さんです。ここも団体で訪れる度に見せていただいています。別名緑御殿。孫三郎の奥様の寿恵子夫人のために作ったと以前聞いたことがあります。迎賓館も兼ねた豪放な建物ですが、この建物の設計にも関わった児島虎次郎の思いが、どういう所に生かされているかを捜すのも一つの楽しみです。柳沢さんは緑色に輝く屋根瓦は、虎次郎の中国趣味から選ばれたのではないかとおっしゃっていました。ちなみに、この有隣荘ができたのが昭和3年、虎次郎はその翌年に亡くなっています。

 邸内を見て回っている時、突然に大原美術館理事長でこの建物の主大原謙一郎様が顔を出され、皆様びっくり、サプライズとなりました。

 「阪神大震災の後、被災された方で、虎次郎の絵を見て心なごみました、と言葉を残して戻っていった方が何人もいた。虎次郎の絵はそういう力を持った絵です。美しいけど力なんです。」

 そのような大原様の言葉が印象に残りました。

 その後、いよいよ私達は、大原美術館の分館に移動して児島虎次郎展を楽しみました。後は自由行動です。絵を鑑賞する時は、それぞれの価値観と感性の度合いに応じて、選びながらマイペースで見て回った方がよいのです。私は、今回、「なさけの庭」と「秋」だけを見れたら満足でした。そしてできれば、今回の美術展に石井記念友愛社から出品した6点の晴れ姿も確認しておきたい。

 「なさけの庭」は、児島虎次郎が岡山孤児院に泊まりこんで描いた絵です。病気で就床している子を保育士と数名の子ども達が看病している姿を描いています。窓の外の光は当時の世間の孤児院に対する関心と同じように弱々しいものですが、絵の中の保育士と子ども達との関わりには、静かな雰囲気の中にも信頼と情愛が満ち溢れています。そして、部屋の壁からはキリストが見守り、座卓の上には聖書が置かれてあります。

 この絵が描かれたのは、明治39年の11月がら翌年の2月にかけてですので、孤児院内部はあの東北大飢饉の救済児であふれかえって大騒ぎをしている頃です。1200名の子ども達がうごめき喧騒に満ちている中で、なぜこんなに冷静でなおかつ慈愛の眼差しで絵が描けるのか。今回、その謎(なぞ)が解けたような気がします。

 会場には、「登校」、「里の水車」そして「なさけの庭」と三つの絵が並べてありました。虎次郎の子どもを見つめる目の優しさに気付かされます。特に「里の水車」の新生児は、キリストの誕生をも連想させる神々しさです。ここからは私の想像ですが大原孫三郎がこの絵を見て感動し、ぜひ岡山孤児院の子ども達を描かせてみたいと考えたのではないかと思うのです。石井十次は息つく暇もないほど忙しく働いていた時で、大原の話を迷惑に思ったことでしょう。当時の西洋館の2階の一室を用意したようですが、一部屋だって余裕はなかったはずです。

 ところが、石井十次をうならせるような絵を虎次郎は描いてしまったということでしょう。彼の感性に驚き、その人格にほれ込んで、後に自分の長女を嫁にやると言う結果になります。私達は、時がたち、一つの結果から遡って事の進展を組み立てていきます。虎次郎と石井との出会い、そして長女友との結婚をあたかも必然であったかのごとく思い込んでしまいます。孫三郎と虎次郎との感性の響き合い、そして石井十次と虎次郎との感性の響き合いがなければ、互いの交流は深まっていかなかったに違いありません。「なさけの庭」も生まれなかったでしょう。例えば石井十次日誌の中に、「竹久夢二君夫婦来訪」と記述された所があります。(明治41729日)が、それ以降、縁が続かなかったのは互いに響き合うものがなかったからということになります。

 この「なさけの庭」は、明治40年の東京府主催勧業博覧会美術展に出品され、みごと一等賞を受賞し、さらに当時の皇后様が御覧になり感動され宮内省御買い上げともなります。虎次郎はもちろんですが、大原も石井も喜んだことでしょう。この絵は、我が国の児童福祉の原点と言ってもよい絵、宮内庁の倉庫に眠らせるのはもったいなく、厚生労働大臣室にでも飾ってほしい作品です。そうすれば我が国の児童福祉行政も変るのではないでしょうか。

 次に「秋」です。ケイトウやコスモスやダリアなど咲き乱れる秋の花に囲まれて立つ、民族衣装のに身を包んだ朝鮮の女性を描いた絵です。大正9年、他の2点とともにフランスのサロン・ナショナルに出品し、この「秋」は、フランス政府買上げともなり、またこの展覧会後にはサロンの正会員にも選ばれています。児島にとっては“世界”に認められた作品であり誇りとすべき大事件でした。

 私がここで問題としたいのは、朝鮮の女性を美しく描いたということなのです。当時不幸にも朝鮮は併合されていて、日本人達は、優越感を持って朝鮮の人達を見ていた時代です。美しい朝鮮の女性を素直に美しいと見る虎次郎の感性に、私は心が震えるほどの感動をおぼえるのです。あの当時にこんな美しい朝鮮の女性を描けた日本人が他にいただろうか。人の尊厳に対する敬意と朝鮮文化に対する畏敬を、この絵から感じ取ることができます。

大原謙一郎様が言われたように、今回私は、この二つの絵から大きな力を得て宮崎へ帰ることができました。磨き直すことのできたこの感性を、これからの仕事に生かしていきたいと思います。ありがとうございました。


                   ―第230号―
                   □2011年5月□

            100年の涙

   
                     

                 園長 児嶋草次郎

ssssssssss gggggjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjj

 この数日降った雨で、大地はようやく生気を取り戻しています。このところ毎年、梅雨が前倒しになったのではないかというくらいよく降っていた“菜種梅雨”が今年はなく、畑もボコボコに乾燥し、野菜の成長が遅れ、また種播きも遅れぎみとなり困っていたのです。農家によっては、田植えができなかったり、唐芋の植付けができなかったり、深刻な事態になりつつありました。乾いた畑の中で必死に水分を求めて根を張りめぐらしていた野菜類は、今、すごい勢いで成長を始めています。レタス、キャベツ、人参等、今どれもみずみずしく、見てるだけでも気持ちよくなります。
 それにしても、この12年、この地方は異変続き。何かの前ぶれではないかと、不安にもなります。江戸時代であれば、霊峰尾鈴山に登って、天に安全祈願をするところでしょうが一。

 さて、今回は、不思議な来訪というか出会いの話を2件、紹介させて頂きます。

 5月の連休中のことでした。石井十次資料館の職員から、内線で、この石井記念友愛社の住所「椎木644番地」と同じ600番代の番地の住所を捜しておられる方が来られていると連絡が入ります。私はピンと来ましたので、友愛社事務所まで、御案内するように指示しました。2人の若者が私の前に現れ、私は応接室で話をお聞きしました。名前は岩村博士(仮名)と名乗られ、手には戸籍謄本を持っておられます。もう一人の方は友人と言われました。実家は本州の方だけれど仕事で現在福岡に在住。これは後で資料館職員に聞いたことですが、博士さんのお父さんは医者だったとか。
 祖父も父も他界したが、ずっと気になっていたことがあり、今回、連休を利用して来てみた。気になっていたこととは、自分達の先祖について父や祖父が何も話してくれなかったこと。木城町役場から戸籍を取り寄せ、この本籍地に行ってみれば、先祖の基でもあるのではないかと思った。近くまで来て聞いたら、石井十次資料館があるのであそこで聞いてみたらどうかと言われ来てみた。今まで石井十次と言う人がいたなんて、全く知らなかった。博士さんは、そんな風に説明されました。戸籍によると曾祖父である岩村善吉(仮名)さんの生れたのは明治10年代、出身地は岐阜県。私はその善吉さんという名前に記憶がありますし、10年ほど前までは、石井十次墓地内にお墓があったこともうっすらと覚えています。石井十次のもとで学んだ人達の末裔の方がルーツ捜しで石井記念友愛社を訪ねて来られるということは、今までも何度かありました。その今までお会いした方々は皆、自分のルーツについて知り、心の準備もおそらくして、その確認に来られたという方ばかりでした。
 しかし、今回の岩村博士さんは、自分の家族が、かつて石井十次に縁があったなんてことは、全く知らされてなく、私が真実を告げることが果たして良いことなのか、一瞬迷いました。その迷いを見透かされないように振り払いながら、私は次のように話しました。
「曾おじいさんの善吉さんは、石井十次に学んだ方だと思います。明治10年代の生まれで岐阜県出身ということは、おそらく濃尾大地震の時に被災され岡山孤児院に入られたのでしょう。そして、学んだ後、明治27年、石井十次や職員達が理想郷を描いてこの茶臼原に入られた時のメンバーの一人だと思います。そのメンバーに選ばれたということは、優秀な方だったのでしょう。」
 博士さんの表情を見つめる余裕は私にはありませんでしたが、博士さんにとっては、全く予想もしない話の展開で、まさに青天の霹靂(へきれき)でしょう。
 「これは天国の善吉さんのお導きではないでしょうか。今回東日本大震災があり、両親ともに亡くなった子ども達が132名ほどいると言われています。明治24年の濃尾大地震の時も多くの方が亡くなり、石井十次はすぐにとんで行って、親を亡くした子ども達の救済活動をしました。今から120年前の出来事ですが、きっと善吉さんは、これを機会にあなたがあなたのルーツを訪ねて、これからの人生に生かしてほしいと願っておられるのではないでしょうか。」

 そんな話もしました。私の所へ来る前に石井十次資料館ものぞいて下さったようですが、もう一度御案内し、また、石井十次墓地へも一緒に行っていただきました。私の記憶では、10年ほど前まで善吉さんのお墓は、石井十次のお墓の近くにあったのです。おそらく博士さんのお父さんが現在お墓のある所へ移されたのでしょう。ある日突然そのお墓はなくなりました。
 青葉若葉に囲まれ、同じ理想郷を追った同志達の眠る石井十次墓地は、この茶臼原で一番神聖な場所。いや世界のどこに出しても誇れる崇高な魂の宿る聖地。今、この大自然と一体となりながら、静かにそれぞれに過去の夢追いの姿を私達にイメージさせてくれます。その空間にたたずむことで、私達は、「友愛」の本当の意味を自らに問いかけていくことになります。

 なんと、善吉さんのお墓があった場所には、「岩村家」のお墓が建っていました。お骨を持っていけない2名の親族の方のために新たにその時建てられたお墓でした。私の記憶から完全に抜け落ちていました。まだ10年ほどしか経っていませんが、今はもう回りの雰囲気にすっかりなじんで違和感もありません。
もちろん博士さんは驚いておられました。しかし浅薄な私には博士さんの思いを想像することもできません。
「今までパズルの欠けていたところがこれでようやく埋められた感じです。」
そうおっしゃりながら流される涙は、私にはすごく美しく感じました。これは魂の涙なのでしょう。石井十次や当時の子ども達がこの地で夢を追った時から100年という時が経過していますが、その時を越える神々しい涙に感じられました。その場に立ち会えたことを、私は幸せに感じますし、また現在、この地を守っている者の一人としての責任の重さも改めて感じました。
 今回の東日本大震災で親を亡くした子ども達の新たな人生がそれぞれに始まっています。厳しい運命を乗り越えていって欲しいと願わないわけにはいきませんし、時とともに人々の記憶から薄れていったとしてもその魂は、色々な苦悩を体験しながらも世代を越えて生き続けていくのだろう、そうも感じています。大事なことは、魂の故郷を大事にしておくことなのかもしれません。

 もう一件の来訪の話に移ります。424日から25日にかけて、女優の東ちづるさんが、子ども達の施設を作りたいという思いを持っておられる北海道は函館にお住まいの渡辺友子さんという方を案内して来られました。
 東ちづるさんとの出会いについては、友愛通信224号に書かせていただきました。昨年の10月末から高鍋町美術館で開催された東ちづるさんの絵本原画展の際高鍋に来られ、館長の田中隆吉先生の御配慮で石井記念友愛園との御縁も作って下さったのです。東ちづるさんは単に美人というだけではなく、非常に感性の鋭いと言うか、霊感の豊かな方のようにその時私は感じています。今回、東さんの知人の方が施設を作りたいと考えられた時、東さんがぜひ石井記念友愛社を見せておくべきだと考えて下さったことは、私達にとってはありがたいことですし、私も精一杯案内させていただこうと思いました。お忙しいのにわざわざ東さん御自身も一緒に来て下さったのです。今回の交流の中で私自身が何かヒントが得られるかもしれないとも考えました。

 24日午前中、空港に車でお迎えに行き、まず、高鍋町の石井記念にっしん保育園、じゅうじの家デイサービス、それに小規模児童養護施設じゅうじの家を案内。渡辺友子さん以外に渡辺さんの友人の太刀川さん、それに行政書士の山本夫妻が同行されました。
 もう何十人定員というような大きな児童養護施設を作るような時代ではなく、私は、里親型グループホームを提案しました。また単一施設だけで機能を充分に発揮できるほど社会は単純ではなくなって来ており、新しく設立するのであれば、保育園や高齢者施設との複合化をお勧めしました。このような複合施設については、渡辺さんも想定されていなかったようで、興味深そうに見て回っておられました。
 午後、石井十次墓地、石井十次資料館、茶臼原自然芸術館、そして石井記念友愛園と御案内。単なる構築物を見るのであれば、わざわざこんなところまで来ることはないでしょう。大事なのは、そこに流れている時、文化、歴史、それから周辺の大自然との関係でしょう。おそらく東ちづるさんは、前回この友愛園を取り囲む“気”のようなものに反応されたのであろうと思うのです。そうであれば、アレコレ細かいことを説明するより、歩いて感じていただければよいのです。福祉の仕事そのものは、私達も大したことができているわけでもありません。

 東ちづるさん方は、その日は高鍋のホテルに泊られ、次の日、私は、石河内の日向新しき村を展望できる峠と、西都原古墳群に御案内しました。私にとってこの二つの地は、石井記念友愛社と無縁の地とは思えないのです。県外の方が見学に来られた時、この三つの地を回って初めて、その視察は完了と言えるのです。
 石井十次にとって、この茶臼原は理想郷作りに最も適当な地であり、武者小路実篤にとって理想郷作りを決断させた場所がおそらくあの峠であり、そしてまた卑弥呼のようなリーダーが天を見上げて、ここが国作りすべき地と決めたのが、今の西都原古墳群のあるあの大地。つまり、天と地と人間とが一体となれる空間だと、感性の豊かな天才達が察した土地です。私は宇宙に開かれた地だと呼んでいます。この三つの地を巡りながら、これから作ろうとする福祉の拠点作りを考えていただきたい、そうも考えたのです。そう言えば、何年か前函館に行った際、あの教会や寺院の集中する高台に導かれるように散策したことを覚えています。
 非科学的な話ですが、今日本人が取り戻すべきはこの時を越えた非科学的感性なのかもしれません。東ちづるさんは、その場所で両手を広げながら、大いに感じておられるように私には見えました。



                           ―第229号―
                          □2011年4月□

                         使命

                園長 児嶋草次郎


                    

 今、園内のソメイヨシノが満開です。自然は何ごともなかったかのように、一一斉に目覚め始め、木々の間を飛び交う野鳥たちも、躍動感のあるさえずりを私達に聞かせてくれます。私達も忙しく農場で働き始めています。毎年変わらない大自然の営みです―。

しかし、おそらく多くの日本人の心は、鉛のようなものでも飲まされたように重く沈んでいます。私も311日以降、憂鬱(ゆううつ)な日々が続いています。山の神の衣(ころも)とも言うべき山桜を、心を開いて見上げる余裕もありませんでした

東日本大地震による死者行方不明者は3万人近くになっています。地震で発生した巨大津波は、東日本の海沿いの町を次々に襲い壊滅させました。空から取った津波の映像は、まさに地獄絵でした。次々に家々や走って逃げる車などを飲み込んでいき、私のイメージの中では、もがき苦しんで亡くなっていかれた方々が無数にいました。テレビに映しだされる被災者の方々を見つめながら、何度も涙を流しました。一瞬にして大事な家族を奪われるショックを何千何万人という人々が受けて悲観にくれておられる。2年前の111日に息子を交通事故で亡くした時の情景がまざまざと蘇り、怒りにも似た感情が湧きあがりました。なぜ、神はこれほど多くの人々の命を一度に奪わねばならないのだ。どうしてこれほど多くの人々に悲しい思いをさせねばならないのだ。天にむかってそう叫びたい心境でした。

しかし、感動の涙も流しました。家も家族も失った人々が悲しみに耐え、しっかり自制しながら、被災者同士で助け合っている姿を見る時です。「希望を持って生きていきたい」と言われる方もおり、そういうお姿を拝見すると、ハラハラと涙がこぼれ落ちました。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は東北地方の人々の魂なのだと感じました。

外国の人々も、この東北の方々の忍耐強さ、規律正しさについては称賛しているようで、度々新聞等で紹介されていました。他人事ながら読むたびにうれしく、日本人としての誇りも感じ、自分達ももしもの時は、こうあらねばならないと強く思いました。

その時かえらもう1ヶ月になろうとしています。色んな事を考えさせられています。町の瓦礫(がれき)の片付けは、もう始まっているようですが、津波で破壊された原子力発電所の方は、ジリジリと放射能を周辺にまき散らし続けており、いまだに全く先が見えない危機的状況が続いています。大都会のために設置された原子力発電所が、その田舎町を死へ追いやろうとしているのです。「何重にも安全策が施してあるので絶対大丈夫」と関係者達は胸を張って来たそうですが、この結末を「想定外」という言葉ですませることができるのでしょうか。

また、津波も世界に誇る鉄壁の高さ10mの防潮堤をなんなく乗り越えて押し寄せています。慢心はなかったのか、過信はなかったのか。新聞によると、弥生時代(約2000年前)と平安時代の貞観11年(869年 約1100年前)にも今回のような大津波が襲ったとあります(読売新聞46日付)。そして明治29年と昭和8年の三陸地震による津波。先人達の知恵は、生かされているのかと疑問にも感じました。これも読売新聞(330日付)ですが、「津波警告の碑 集落を救う」の見出しの記事を興味深く読みました。

岩手県宮古市重茂半島の東端の姉吉地区(12世帯約40人)には「此処(ここ)より下に家を建てるな」という石碑が立っていて、その警告を守ったおかげで、全ての家屋が被害を免れたというのです。「住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。」と記事にありました。昭和大津波の直後に住民らが石碑を建立したのだそうです。

特に高度経済成長時代以降、いつ頃からか、日本人達は、自らの科学技術あるいは土木技術の力を過信して、自然をコントロールできるという思いこみをしてしまったのではないでしょうか。今回改めて、大自然に対して、人間は畏敬し謙虚でなければならないと思います。地球は生き物であり、大自然の力を侮ってはならないのです。

今回、ふと思ったのが、この友愛社のある茶臼原台地の川むこうの大地にある西都原古墳群の存在です。今から1700年から1400年前の人々の古墳が300以上西都原台地に並んでいるのです。卑弥呼の国がここに存在したと唱える学者もいるのですが、今まで海から10数キロ以上も奥まった所にあるのが疑問だったのです。海から4K5K以上津波はさかのぼったという今回の新聞記事を読んでいると、敵からの防衛だけではなく、津波を想定しての国作りがなされたのではないか、そう思えてくるのです。

天災・地災・人災。人類の歴史は常にそれらの災害との戦いであったはずです。太平洋戦争は人災でした。敗戦から立ち上がり、世界の人々がうらやむような経済復興を日本人は成し遂げました。今回の大災害を前にして、価値観の転換が必要であると言われる都会人がおられます。彼らにとって価値観の転換とはどういう意味なのでしょうか。大都会の文明に慣れ親しんで、はたして後戻りができるのか。 

教育とは、本来、天災・地災・人災に負けない強い人間を作るというのが目的ではなかったか。戦後半世紀ほどで物質的豊かさと平和を手に入れ、その生活にどっぷり浸かっているうちに、その豊かさと平和は永久に続くものだと、日本のリーダー達はいつの間にか思い込んでしまったのではないか。この数年ほころびが見え始めていますが、今回の大地震は、その思い上がりを打ち砕くものでした。

石井記念友愛社は、今何をし、これからどこに向かって進むべきなのか。この国家的危機にどう向かい合ったらよいのか。石井十次の時代と違って、各自治体もしっかりしているし、国家的支援体制も昔と比べものにならないくらい整備されている。今私達が飛んで行ったからといって何ができるわけでもない。私達には守らねばならない子ども達もいる。今できることは、義捐金集めに協力することだろう。しかし、もし直接に何らかの具体的な支援要請があれば、自分達のできる範囲で精一杯答えていかねばならない。震災孤児については、できるだけ故郷に近い所での生活を保障すべきで、特別の事情がない限りこんな遠いところには連れて来るべきではない。そのように今は考えています。

さきほどの繰り返しになりますが、天災・地災・人災に遭遇することを前提として人生は設計されなければならず、その災害に耐える力、立ち上がる勇気、協力し合う思いやり、そして復興するための知恵と技術等を身につけさせるのが本来の教育であると認識し直しています。昔の人は、孫やひ孫のために、山に木を植えました。自分達の欲望を満足させるためではありません。余裕があったから木を植えたのではありません。教育は100年の大計であり、子孫繁栄が国作りの基本であったのです。

石井十次がこの茶臼原で理想郷作りを試みたのは、まさに、そのような教育を徹底させるためではなかったか。岡山孤児院に集まる子ども達は、皆、天災・地災・人災の被害者でした。彼らが自らの人生を切り開き運命を変えていくためには、教育によって力を身につけていくしかありませんでした。実際例えば、濃尾地震(明治24年)の被災児が岡山孤児院で学んだ後、この茶臼原での理想郷作りに一緒に挑戦し、りっぱに自立していきました。今は三世四世の時代ですが、石井記念友愛社はそういう末裔の方々にも今支えられています。

石井十次の岡山孤児院は、大正15年に一度解散し、それから20年後の昭和20年に石井記念友愛社として再開、その理念の復興に努めてきました。今も、石井記念友愛園の子ども達は、野菜つくりや米作りをしています。私達は労作指導と呼んでいます。時代錯誤だと批判を受けることもありましたが、愚直に続けてきました。山にも木を植え続けてきました。天災・地災・人災に負けない人間に育てるためには、これからも守っていかねばならない本来の教育なのだと、東日本大震災を目の当たりにして思いを新たにしています。そのことは石井記念友愛社の使命であろうとも思っています。これから価値観の転換がどのように行われるのか分かりませんが、これからも先人の知恵に素直に向き合っていきたいと思います。

最後になりましたが、報告をさせていただきます。この度、石井記念友愛社は、大阪の「救世軍希望館」とともに、「石井十次賞」を拝受することになりました。「希望館」の創設者山室軍平氏と石井十次との縁は深いものでした。石井十次が高邁な理想を描いてこの茶臼原に開拓に入った時、山室氏も一緒に参加し子ども達と鍬を振るったのです(明治27年)。石井十次との交友は山室氏が同志社の学生の頃から始まっています。濃尾地震の被災者救済に奔走する石井を側面から支援したり、石井が同志社病院に入院した時(明治25年)には、十次のために、ウイリアム・ブースの英文の著作を訳読する友人の隣りでノートに筆記してあげたというエピソードがのこされています。

岡山孤児院はその後解散しましたが、山室氏の「救世軍」は、石井の遺志を引き継ぐかのようにその後全国的に事業を展開されていかれました。戦後再スタートした石井記念友愛社にとっては、「救世軍希望館」は、大先輩であり一緒に受賞できることは、光栄なことです。父が再開して65年、ようやく一人前の社会福祉法人として認めていただいたのではないかと、感謝しています。今の社会状況を考えると、素直に喜べないところもありますが、せめて副賞を東日本大地震の被災者の方々にお送りすることで、現在の私達の使命の一部としたいと思います。ありがとうございます。


                             第228号
                           □2011年3月□

                   尾鈴と都農

                           園長 児嶋草次郎

                    

 2月、友愛園の中・高生の子ども達とともに、熊本の横井小楠記念館を訪ねました。隣接して保存されている私塾「四時軒」では、三度、坂本龍馬との対談が行われたと言われています。
 子ども達は変わりばんこにその座に正座し、イメージをふくらませていました。私も、小楠になったつもりで、遠い阿蘇の外輪山をぼんやりと見つめました。
 知識だったら本を読めば得られるのに、石井十次を含めて先駆者たちは、多くの人を訪ね直接会うことで、自分の志をより高く広いものにしています。最近感じることは、旅をすることで、彼らは、自分の魂を一旦宇宙に開放し、鳥の目で大地を見渡す方法を身につけていったのではないかということです。
 「アア美なるかな尾鈴山 ああ壮大なるかな太平洋」と謳った石井十次は、まさに魂をこの児湯・西都地域のはるか数千メートル上空において、その未来を考えたといえるでしょう。今、政治家たちに足りないのはそのような感性ではないか。
 さて、話は変わっていきますが、「アア、美なるかな尾鈴山」と石井十次が呼んだ「尾鈴山」に軸足を移していきます。先月の「友愛通信」でも報告させていただきました、都農町立保育園二ケ園を4月より石井記念友愛社で経営することになった件について、今回その経緯を書きとめておきたいと思います。単なる民間移譲という次元の問題だけではなく、私に、感性の転換をも迫ることになっているのです。宇宙に魂を置いて見るなんての芸当はとても私にはできませんけれども、今まで北の大地に泰然と横たわっていた尾鈴山が、自らの心の中心軸となって来ているのです。
 ついでにさらに脱線していきます。今回、都農町とご縁ができたわけですが、「都農」と「尾鈴」という言葉に強い関心を抱いています。
 おそらく文字が輸入される以前からの呼び名なのだろうというのが私の感想です。素人が偉そうにこんなことを言うと笑われそうですが、「阿蘇」と「富士」はアイヌ語で「噴火口」と「火」という意味だと聞いたことがあります。アイヌ語は縄文語だと私は思っていまして、まだ全国に縄文人たちが暮らしていた頃の呼び名が「aso」であり「huji」であるのです。漢字が日本に入って来て「阿蘇」や「富士」という漢字をあてたにすぎません(表音文字)。
 「都農」は「tuno」と読みます。これはもともと「tono」ではなかったか。「tono」はアイヌ語で「殿」という意味です。つまり、縄文時代、この児湯・西都地域を支配する偉い殿様がこの地に住んでいたということではないか。都農神社ができるよりももっと昔のことでしょう。この尾鈴山を望める地域の中心地が都農であったに違いない。
 「尾鈴」はどうか。ちょっと無理がありますが、「oi so so」から来ているのではないか。「oi 」とは日本語で「多い」です。「so」とは滝とか岩とかという意味だそうです。北海道に層雲峡というところがありますが、「so-
un」とは「岩のある 滝のある」という意味だそうです。つまり、尾鈴とは、滝や岩がいっぱいある所という意味になるのでしょう。尾鈴連山すべてを表現しているのではないかと思います。
 霊峰尾鈴山の麓に支配者が住んでいて、住民たちは、その支配者の住んでいる所を「tono」と呼んだ。時代が下り都農と表記されるようになったということではないのか。
 おそらく現在の都農(一の宮)神社の境内がその支配者の居住地だったのでしょうが、保育園の民間移譲の件で往復する際、何度か寄って、今回の導きに感謝しました。気の遠くなるような長い長い時を越えて、魂の故郷に帰ってきた、そんな感じがしないでもないのです。
 都会も田舎も同じように軽々しく「地域福祉」という言葉を使い、施設を作ってしまえばいかにも地域に貢献しているように錯覚してしまうのですが、本来、その地域に腰を据えるということは、その大地、自然、歴史にまでイメージを広げ、交流していくことであると私は感じていますので、前置きが長くなってしまいました。それがなかったらその法人の理念や方針は空虚なものになってしまいます

 さあ、民間移譲の話に移ります。

① 平成22年9月21日付の文書を受け取ったのは9月上旬でした。「『都農町立さつき保育園、ひがし保育園』移譲先法人の募集説明会の開催について」という見出しの文書が届いたのは、高鍋町にあります石井記念やまばと保育園です。あて名は「石井記念やまばと保育園」でした。もし園長がその文書を本部の私の所へ持って来てなかったら、御縁はできなかったことに゜なります。後で聞いたことですが、都農町以外は児湯郡内四町[高鍋・木城・川南・新富)と日向市の保育園を経営する社会福祉法人27法人に文書は発送したということでした。とりあえず、事務長と一緒に出席してみることにしました。都農町からの募集はそれまで全く予想もしないことでしたのでとまどいました。

② 10月1日午後1時半より、都農町役場の会議室で説明会は開かれました。参加していたのは12法人ほどだったと思います。そこで説明にあたった福祉課の課長補佐は驚くべき発表をされました。さつき保育園(定員90人)、ひがし保育園(定員60人)を、分けずに同一法人に一括して移譲するといういうのです。
「統一した方針で運営してほしい」と理由を述べていました。その2日後の日曜日に、二つの保育園の現地案内があり見てきましたが、一つの方はかなり老朽化しており、「一括して」の意図が分かりました。その時の参加法人は、友愛社を入れて6法人でした。

③ 10月4日、友愛社の7つの保育園の園長たちを急きょ集めて、「応募する」ことを伝えました。一番大きな動機は、使命感でしょう。2つの保育園を一度に引き受けるということは、2人の園長と2人の主任を同時に出すということになります。一法人一施設の法人にとってはかなりの無理をすることになるでしょう。二つの保育園のうちの一つの方は、早急に全面改築を必要とする建物です。無理をして引き受けてしまったら保育を混乱させ、その法人の基盤をも揺るがすことになりかねない。幸い、石井記念友愛社は複数の保育園を持っているので、一法人一施設に比べたら、大きなリスクを犯すことにはならない。だったら、友愛社が手をあげねばならない、そんな思いです。
 私は、常にこの児湯・西都地域は一体であるという捉えかたをしており、同じように児童福祉が充実発展してほしいという願いをもっています。行政間格差は現実にあり、石井記念友愛社が経営・運営することで都農町の児童福祉の向上に貢献できるとすれば、これは法人としてありがたいことです。そのチャンスを与えていただいたわけだから、それを逃すわけにもいきませんでした。

④ 10月28日に移譲申し込み書を提出。応募した法人は、友愛社以外には都農町内の法人が二つ、日向市内の法人が一つ、合わせて4法人だったようです。ちなみに三つの法人はいずれも一法人一施設でした。
 私は、地域との関わりについて、次のように書かせていただきました。「地域の関係機関との連携と共生の時代です。関係機関を含めた地域との関わりの中でこそ、ニーズに答えていくサービスは生み出されていくのです。保護者を始めとして、行政、学校、住民あるいはお年寄りやボランティア等、広い視野と幅広い交流が必要です」。そして、友愛社の保育園でやっているような様々な特別保育や地域の社会資源との連携等具体的に提案しました。

⑤ 11月5日が4法人の面接審査(プレゼンテーション)でした。移譲候補選定委員会(会長福祉課長)が組織され、移譲先候補を1法人にしぼり、町長に答申、町長が決定して、町議会にかけて最終的に決定という順序となります。選定委員は全部で10名。保育園代表2名、保護者代表2名も含まれていたようです。内部でどのような選定作業が行われたかは不明です。
 質問の時間も含めて25分程度。私がアピールしたのは、法人の理念と方針等、そして、友愛社の7つの保育園がどこも年間を通して定員オーバー状態であるということでしょうか。小さなミスはいろいろありますが、園長や職員のがんばりのおかげで、どこもその保育園を高く評価していただいているということは、ありがたいことです。

⑥ 「11月15日付の「貴法人を、さつき保育所・ひがし保育所移譲先候補として決定した」旨の文書が届いたのは11月18日でした。一安心です。しかし責任の重さも改めて感じました。石井記念友愛社への期待に答えていく責任が新たに増えたのですから。さらにありがたい話が町より届きます。都農町立保育園(三園)で働いている13名の臨時職員が、引き続き新年度からも働きたいと申し出て下さったのです。その面接は12月13に行いました。高鍋町立保育園(現石井記念明倫保育園)を受けた時は残ってくれた職員はゼロ。川南町立保育園(現石井記念十文字保育園)を受けた時は2人でしたから、都農町民の協力的姿勢に感謝しないわけにはいきませんでした。もちろん全員採用させていただきました。

⑦ その都農町民の受容的姿勢は、「さつき保育園」での保護者説明会(12月20日)、ひがし保育園での保護者説明会(12月21日)でも感じたことです。20名から30名くらいの方々が出席して下さいました。私はこの場で、保育園の名前を変えることを保護者の方々に伝え、了承下さるようにお願い致しました。「さつき保育園」は「石井記念都農保育園」に、「ひがし保育園」は「石井記念尾鈴保育園」にです。その保育園出身の保護者の方々もおられ、心苦しくはありましたが、これからは都農町を越えて、その存在をアピールしていく必要があります。法人にとって理念が重要であるのと同じくらい保育園にとって名前は重要です。
「ひがし保育園」では最後に次のように挨拶して保護者説明会を終わりました。
 「石井記念友愛社の到達目標は、『友愛の地域社会づくり』です。保育は子どもと保育士との関係だけで成り立つのではありません。今後、この地域の民生児童委員や公民館長さん、小学校の先生方にも御挨拶をしなければなりませんが、地域住民の皆さんや関係機関の方々に見守られ、支えられて本当の意味の保育は成り立ちます。友愛の地域社会づくりとは、子ども、若者、大人等年齢の幅を越えて、また障がいの有無を越えて支え合う地域社会づくりです。そういう地域社会づくりをめざすことが地域の活性化になると信じています。これから、保護者の皆さまにも協力をお願いしたり、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」。

⑧ 12月18日、石井記念友愛社の評議委員会・理事会を開き、役員の皆様に経緯を説明、後先になった部分もありましたが了承を得て、また県に設立認可申請書を提出することにおいても、承認をいただきました。そして、12月24日付で都農町役場に申請書を提出。役場でチェックした後、12月28日に児湯福祉事務所に書類は提出されました。年が明けて1月からは引き継ぎのために二ケ園への職員達の派遣と、残って下さる町臨時職員の友愛社保育園での研修等、相互交流も始まっています。
 こうして振り返ると、9月21日付の文書を受け取ってからバタバタと日は過ぎて行っています。仕方のないことではありますが、石井記念友愛社にとっては重い作業になりました。特に人事は大変で、その後の7つの保育園の人事も含めて難産であったということができます。しかし園長達の協力もあり、何とか乗り切りました。石井記念友愛社の歴史にとって大きな節目になることでしょう。
 保育園は地域福祉の一つの核・拠点です。行政域を超えて複数の施設を経営していると行政間格差、地域格差が見えてきます。その格差を埋めるべく、また児童、障がい者、高齢者という三つの領域に施設を持つ強みを生かし、その触手をしっかり地域に伸ばしながら新たなニーズの掘り起こしにも、エネルギーを注いでいかねばなりません。尾鈴山に導かれたことを感謝しながら、新たな決意で新年度に向かいたいと思います。


ssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss第227号
                           □2011年2月□

             第97回 石井十次記念式

                園長 児嶋草次郎

                        

 大地の野も山も、降灰により色あせてしまい、寒中のなか命をかけて咲く日本スイセンの花も、あまりの寒さに花びらがなえてしまっています。小林の新燃岳から約60k離れたこの茶臼原からもその爆発的噴火後の噴煙が望めますし、風向きによっては、灰が降ってくるのです。また、この冬の寒さは異常で、1月末の気温はマイナス9度でした。何を神は怒っているのでしょうか―。以下は、1月30日墓前における石井十次記念式の挨拶です。凍てつくような寒さ厳しい一日でした。

 皆様、第97回石井十次記念式に御出席下さいましてありがとうございます。主催者として一言御挨拶申し上げます。

 今、宮崎県の農家の多くが危機的状況に追い込まれています。皆様も御存知のように、昨年は口蹄疫が猛威をふるい、特にこの児湯西都地域の畜産農家の殆どはすべての牛や豚を失いました。また今年に入ってまだ1ヶ月もたたないというのに、今度は鳥インフルエンザが県内全域に広がりつつあります。渡り鳥がそのウィルスを運んでいると言われ、防ぎようがない状況下に置かれ、養鶏農家の皆さんは祈りの日々を送っておられることと思います。一羽でもその疑いが出れば、何千、何万羽のニワトリは、それこそ一夜にしてすべて殺処分されてしまうのです。

 そして、小林の新燃岳の噴火によって、その風下にあたる都城から日南にいたる地域の野菜農家の多くが、昨年の夏から丹精をこめて育てあげて来た野菜の殆どを失いつつあります。火山灰が何センチも降り積もって、売り物にならなくなって来ているのです。この火山の噴火も防ぎようがなく、ただじっとおさまるのを待つしかありません、私は3日前27日に都城に用があってまいりましたが、その帰り、午後3時頃から噴き出した原爆雲のようなどす黒い噴煙の下で車を走らせるということになってしまいました。雨のような音をたてながら火山灰が車に降り注ぎ、ライトをつけてワイパーを動かさなければ前が見えませんでした。積もった灰で道路の白線も見えませんでした。遠い遠い昔、弥生時代の人々が、大噴火により、この地を捨てて本州の方へ移っていかねばならなかった頃のことを想いました。

 大自然の前で、人間はなんと無力なんだろうと想います。なす術もなく、ただじっと祈るしかありません。大自然に相対した時、私達は謙虚にその摂理を受け入れていくしかありません。私達は自然との共生というようなことを軽々しく口にしたりしますが、決して思いあがってはいけないことを強く思い知らされています。自然を支配するとかコントロールするなどということは、人間にはできないことなのだと改めて思い直しております。

 石井記念友愛社の方針に「自然主義」というのがありますが、思い上がりの自然主義ではなく、謙虚に向き合う自然主義でありたいと思いますし、大自然への畏敬と感謝を常に持ち、子ども達にもその摂理を教えていかねばならいと思います。

 一方、福祉の世界に目を転じますと、今、タイガーマスク運動が全国に広がっています。マスコミも児童養護施設に注目するようになりましたし、国民の関心も集まって来ています。国も、そのエネルギーに逆らうことはできず、30年ぶりに児童養護施設の最低基準を改善するべく動き始めています。児童養護施設関係者が、今まで30年間、国に働きかけても全然動こうとしなかったのに、たった一人の善意から始まったこの動きが、国をも動かしているのです。

 ここに注目すべき人間世界の真理があります。一人の善意が世界中を動かすこともあるということです。ここが先ほどの大自然の摂理と対称的なところであると思います。人間世界においては奇跡がおきるのであります。一人の熱い思いが人々の心にうまく伝わっていくと人々の和・輪を作り、人間世界を徐々に変えていくのであります。

 石井十次先生の福祉事業も、まさに一人の行動から始まったのであります。私達は、その真理を「友愛主義」という言葉で表現しています。タイガーマスク運動は、まさに友愛運動であります。私達施設従事者もその感性と勇気を見習わねばなりません。

 石井記念友愛社は、石井十次の友愛の理念をこの地域社会の福祉活動の中で生かすべく活動させていただいています。ささやかではありますが、福祉的立場で、世の中が少しでもより良い方向に動くように働かせていると言ってよいでしょう。より良い方向とは、到達目標にありますように、「友愛の地域社会作り」であります。それは、具体的に言いますと、大家族的支え合いの社会作りです。人類が何千年という歴史の中で積みあげて来た、子育て、教育、相互支援のしくみであります。家族制度は、この560年の間に大きく崩れてしまいましたが、その機能を福祉社会の中で再構築していくことが、石井記念友愛社の使命であります。

 石井記念友愛社の三つの方針のうち「自然主義」と「友愛主義」については今申し上げましたが、もう一つが「家族主義」であり、この家族主義に基づいた活動が、大家族的機能を取り戻すべく取り組んでいるそれぞれの福祉活動であります。

 石井記念友愛社では、現在、児童養護施設を初め保育園、老人デイサービスセンター、そして障がい者通所施設と幅広く施設を経営しておりますが、それぞれの施設個々に活動するのではなく、枠を越えて協働・共生し合うことで、その目的を達することができるのです。

 そのことを我々職員はしっかり自覚することが必要です。戦後、強い行政主導のもとで縦割り福祉が行われて来ましたので、我々の意識もどうしてもそれぞれの福祉施設枠にとどまってしまいます。例えば保育園だったら、保育園以外のニーズを受け入れようとすると目的外使用につながるし、余計な仕事になっていたのです。しかし時代も大きな過渡期を迎えており、社会状況も変化しております。関係福祉機関・地域等横軸をしっかり定めなければ本当の福祉は成り立たない時代であると思います。

 戦後の縦軸ばかりを大事にして来た時代に比べると、価値観の大転換であります。価値観が変わる時代には、大きなエネルギーを必要とします。我々は今、その渦中にあるという自覚を持ちたいと思います。 

 さて、石井記念友愛社の事業について御報告させていただきます。今年度も残り2ヶ月となっておりますが、児童養護施設、保育園、老人デイ、障がい者施設、それぞれにおおきなトラブルもなく推移してまいりました。これも行政を始め地域の関係機関、それに後援会の皆様の御指導・御支援のおかげであると感謝しております。

 来年度のことになりますが、都農町立保育園2ヶ園を民間移譲で石井記念友愛社が経営させていただくことになりました。2ヶ園一緒にというのは、石井記念友愛社としましては、ちょっと荷が重すぎるのでありますが、都農町の移譲の条件でありますので、これも一つの導きとして受け入れることに致しました。私が非常にありがたく思ったのは、計13名の町立保育園職員が残り、友愛社から派遣する職員と一緒に働いて下さるということになったということです。まさに友愛であります。私は単なる保育園の民間移譲の話しだとは考えていません。先ほど申しました友愛の地域社会作りの場、チャンスが都農町の町民の皆様より与えられたのだと受け取っています。来年度は、精一杯職員達と一緒にそのチャンスを生かすべく働きたいと考えております。

 もう一つだけ報告させていただきます。現在、高鍋町の石井記念にっしん保育園ホールにおきまして、「高齢者セミナー」を月1回開催しております。昨年度も6回コースで行いました。今年度は、口蹄疫の関係で始まるのが予定より遅れてしまいましたが、一昨日28日に第4回目を開催することができました。毎回、4050人の方々が御出席下さっています。私は、このセミナーは地域の方々への恩返しのボランティア活動と位置づけています。ですから、講師の方々にもボランティアで来ていただいております。

 このセミナーの目的は、地域の方々と一緒に、理想的な高齢者の住まいとはどういうものなのかということを追究することにあります。今までのような縦軸にそった大規模な高齢者施設ではなく、小規模で地域に根づく家庭的な共同の住まいとしての施設を追究しております。来年度、一つの形になればと願っております。

 以上、少し長くなりましたが挨拶とさせていただきます。これからまた一年間、誠実、堅実、公正に仕事をさせていただくことを石井十次の墓前においてお誓い申し上げます。皆様の、御指導、御支援を、今年もよろしくお願い申し上げます。本日はありがとうございました。

                     


                             第226号 
                           □2011年1月□

              運命を変える 

                 園長 児嶋草次郎

                     

 あけましておめでとうございます。

 昨年は、園で飼っていて牛3頭が口蹄疫防止のために殺処分になるなど、悲しい事件もありましたが、子ども達は、みんな1年間大きな病気等することなく過ごすことができ、また成長することができました。

 これも、多くの皆様の御指導と御支援のおかげです。心より感謝申し上げます。

 今年も、石井記念友愛社の理念、方針、到達目標を常に頭に描きながら、子ども達の未来のために、一歩前進したいと思います。

 今年もよろしくお願い致します。

 以下は、1225日、園のクリスマス会で園長として子ども達に話したもののメモに加筆したものです。

 クリスマス、おめでとうございます。
 友愛園の子ども達48名全員、こうしてクリスマスを迎えることができました。中学生・高校生のみんなは昨夜、石井十次先生のお墓にお参りし、1年の反省と新年へ向けての決意をすることができました。48名全員がこうしてクリスマスをお祝いできるというのが一番うれしく思います。(小規模児童養護施設「じゅうじの家」の子ども達は、高鍋でデイサービスのお年寄りと一緒にクリスマスを迎えています。)

 今年は、4月から口蹄疫がこの宮崎に侵入し大暴れしました。都農町から始まって、川南町、高鍋町、新富町、木城町、西都市と広がって、この西都・児湯地区だけで27万頭(宮崎県内では29万頭)の牛や豚が殺処分されました。「殺処分」というと何かむつかしい言葉に聞こえますが、人間によって殺されたということです。
 友愛園で飼っていた牛(なつき、はるこ…このはるこは630日に出産予定でした、夏平)も、620日に連れて行かれて殺されました。そして、810日、みんなが盆帰省で帰る日の朝に、牛舎の裏の記念碑(お墓)で慰霊式をしました。みんなで黙祷をして牛達の冥福を祈りました。
 西都児湯地区の人口は10万人くらいですから、その3倍近い動物達が殺されたのです。これ自体に非常に悲しいことで、みんなも手紙を書いたりして、牛達への思いをそれぞれに表現していました。みんなも命について色々と考えたと思います。

 去年の秋には新型インフルエンザが園内にもはやって、次々に就床しました。あの時には、先生達や保母さんたちが必死になって感染した者を病院に連れて行って、治療してもらい介抱しましたね。なぜ牛達にもワクチンを打ったのに守ろうとしなかったのだろうと考えましたね。
 この茶臼原大地のあちこちにおそらく何万頭という牛や豚が殺され埋められています。彼らだって、人間に対して何か言いたいことがあったのかもしれない。
しかし、言葉のしゃべれない彼らは、自分達を守るために何も訴えることができず何も生きのびるスベを持たず、ただ人間がすることに黙って従うしかなかった。そんなことを考えていると人間の罪も感じますが、自分が人間として生れて来たからこうして生きておれるのだろうと思うし、感謝の気持が湧いてきます。
 「ああ、人間として生れて来てよかった」とみんなも思いませんか。もし牛に生れて来ていたら、もうこの世にはいない。
 しかし、人間として生まれて来たからと言って、人間みんなが幸せな生活をしているわけではありません。

 暗い話ばかりで申し訳ないけど、昨日(1224日)の宮崎日日新聞に、次のような記事が載っていました。
 延岡で28歳のある女性が生後11ヶ月の自分の子どもを殺すという事件がおきて逮捕され、その裁判の結果、その母親には懲役6年という刑が1221日に言い渡されました。
 母親が我が子を殺すなんて、両者にとってこれほど不幸なことはない。その11ヶ月の子どもの立場に立つならば、せっかく人間の世界に生まれて来たのに、牛や豚の世界と変わらないじゃないかということになる。殺した母親のことを、世間の人達は鬼のような母親だと言う。しかし、宮日の記事は、次のように書いていました。
 「加害者となった母親は、幼少期に実母が家を出たため、父親や祖父母の元を転々とした」。今、みんなは頭の中でパッと自分の人生と重ね合わせてみたのじゃないですか。
 その母親自身が、幸せとは言えない育ち方をし、すごく孤独だった。本当に頼れる人もいなく子育てについても悩んでいた。結婚もして夫もいて物質的には、何不自由なく生活していたはずだから、外面的には幸せそうに見えていたのかもしれないけど、決して幸せな生活を送っていたわけではなかった。
 人間として生まれて来たことを幸せに思いまた感謝し、その与えられた自らの生命をみんな大事にしているかと思っていたらそんなことはない。世の中には、そういうことを考えたこともなく、ただ日々のいろんな誘惑に流されて動物のような生活をしている人がいっぱいいる。

 幸せとは何だろうと考えてしまいます。みんなは、自分のことを幸せだと思いますか不幸だと思いますか。
 学校でケイタイを持って自由気ままに生活している者や彼氏や彼女を持って好き勝手に生活している者達を見ていると、自分が制限の多い集団生活をしていることを不幸に思うかもしれない。本当にこのような生活は不幸なのか。
 昨夜、中学生以上の者はみんな石井十次先生のお墓の前でクリスマスの挨拶をして、この1年の間大きな失敗をした者は、大きな声で反省をしました。「自己コントロールできなかった」とみんな言っていました。
 「自己コントロールのできない人間は、自らの衝動や回りの誘惑に流されて、自滅していく」。そういうことをここの生活を通して自覚して、自己コントロールのできる人間になるように修行していくこと。少年時代にこの真理を知り自己統制・抑制できる人間になるように努力できることが、それから困った時には素直になって人に助けを求めることができるようになることが一番幸せな生活ではないかと思います。
 今の世の中のほとんどの若者はこのことに気付いていないのです。さっきの子どもを殺した母親も「自己コントロール」という言葉について考えたこともないのではないかと思います。もっと人に助けを求めてもよかった。

 「運命を変える」という言葉を、誠一朗君が収穫祭の時に板に彫ってくれました。自らの運命を変えるためにどうしたらよいのか、何をなすべきなのかを知っている人間が一番幸せです。とくにみんなの年頃はそうです。それぞれの運命を変えるためにここで修行しているのであり、神様からそういう場を与えられたことを感謝し、それぞれに努力していかねばなりません。
 昨夜はみんな気合いが入っていました。その気持ちを忘れず来年も日々努力して下さい。それぞれに与えられている運命はそれぞれ違うのだから、回りに流されず、自分の運命としっかり向き合いながら、前に進まねばなりません。

 クリスマス会には、石井記念友愛社後援会「石井十次の会」の皆様や、中学校、小学校の先生方等も出席して下さいました。子どもたちには大きな力となることでしょう。

特に、そのお客様の中に、九州保健福祉大学の山﨑きよ子先生と、弁護士の松田公利先生ご夫妻が加わって下さっていたことは、子ども達にとっては奇跡に近いことだったかもしれません。大学教授とか弁護士などと交流する機会は、子ども達には全くなく、遠い遠い存在の人達です。しかし、このクリスマス会でやさしく語りかけて下さり、おそらく子ども達の心の中に身近な存在として位置づけられたに違いない。自分の進路を考える時、そして社会に出て追いつめられた時、彼らは思い出すでしょう。
 子ども達の自立を考える時、この出合いは大きなプレゼントでした。自立した大人になるために、子ども達も今年一歩また前進することでしょう。
   
            

石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が児童福祉の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開、『石井記念友愛社』として創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や岡山孤児院のさまざまな資料が保存・展示こされ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年(2009)「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。

 ゆうあい通信3


児嶋草次郎

このページは、石井記念友愛社理事長・児嶋草次郎の連載エッセイです。このエッセイは、石井記念友愛社が発行する「ゆうあい通信」に掲載されたものを転載します。この連載は、1992年(第一号4月1日発行)に始まり、以後書き続けられ、現在も書き継がれています。日々の園生との交流や指導・教育のこと、社会の動向や移り変わる自然界のできごと、石井十次の生涯や友愛社の歴史などが、静かな語り口で綴られ、福祉の現場からの報告・資料ともなっています。このページでは、過去に発表されたものに遡りながら、最新作を随時掲載してゆきます。

  社会福祉法人石井記念友愛社
   宮崎県木城町椎木644-1
TEL0983-32-2025FX0983-32-3916

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

       方針
   自然主義 健康をつくります
   家族主義 家族をまもります
   友愛主義 家庭をささえます

   到達目標
 友愛の地域社会つくり