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     ―2009年11月―
      仙台市東三番丁


 宿を朝
6時すぎに出て、清清しい空気を吸いながら、また紅葉し始めた木々に目をやりながら、10分ほど坂道を下ったところが、日本三景の一つと言われる松島海岸でした。
 漁港には340隻ほどが並び、桟橋には大小数隻の観光船がつながれています。海は九州人から見ると鏡のように静かで、その水面に朝陽が映り、太陽への一筋の光の道を作ってくれています。水平線が見えないほど重なるように島々が点在しシルエットとなっています。美しい光景で、その光の道に誘っているかのようです。しばらく海ネコの声、上品な潮の匂い、そしてその光に心をあずけ時を過ごした後、背中に太陽の暖かさを感じながら宿に帰りました。

 1028日から30日にかけて、宮城県仙台市で全国児童養護施設長研究協議会が開催され行ってきました。この会は施設長としての自覚と資質を高めるための年1回の研修会ですが、私には、今回もう一つの大事な目的がありました。
 それは、仙台キリスト教育児院を表敬訪問することです。この機会を逃したらもうこの遠い地を訪れることはできないかもしれず、私に与えられた最後のチャンスと受取ったのです。

 明治38年、日本国民の多くが日露戦争の戦勝気分に酔っている頃、東北地方一帯は冷夏で稲が実らないという事態を迎えていました。それは歴史的大凶作となり、なかでも宮城、福島、岩手三県は深刻で、平年作に比べ宮城13分、福島24分、岩手34分しか収穫がなっかたと言われます。
 人間は食べなければ生きていけません。しかし時は刻々と過ぎていきます。草の根、木の実を食べつくし、家財道具も売りつくし、着るものもなくなってワラなどを身にまきつけて生きようとしていた人もいるようです。年を越して、一刻の猶予も許されない状況となり多くの人々が救済に動き始めます。恐いのは餓死であり子ども達の人身売買です。

 石井十次は、明治39217日岡山孤児院の中心的支援者で、宣教師のぺテー氏に「餓死に瀕しつつある東北の孤貧児を傍観するは不可なり」と言われ、救済活動を決意しています。216日に少年音楽隊を引き連れての四国遠征から帰りほっとする間もなく夜職員達と会議している時の来訪でした。石井はその後、3月末から5月にかけて計825名の子ども達を救出して岡山孤児院に保護することになるのですが、それが成功したのは、仙台や福島の多くの人達の身を挺した支援があったおかげなのでした。
 その救済活動の中心的存在であった仙台キリスト教育児院を創設した人々に感謝したいという気持ちは以前からありましたし、その地に立ってみたいという思いもありました。
 私は今回、現院長の大坂欣哉氏にあてた手紙に次のように書きました。

 「明治39年、430人ほどの宮城県内の児童を救出・移送する際には、創立者のフェルプス女史やメソジスト派の人々に大変お世話になったのではないかと思っておりますし、最初に育児院を創設した仙台市東三番丁、ここは最初に仙台救済所(片桐清治氏宅)を設けた場所でもありますが、この『東三番丁』という町に立って、感謝の気持ちを持ってみたいと思っております。当時の多くの人々の宗派を越えた美しい協力と連携を想うことは、私にとって、新たなエネルギーとなります。」

 救出され全国24施設に入所した子どもの数は2000人を越えるそうです。全国規模での救済活動であり、また遠く外国からも莫大な義捐金が寄せられています。まさに和、輪、環作りの勝利の結果と言うことができるでしょう。その民を主体としたこれほど大きな友愛のエネルギーは、日本の歴史上他に類がないのではないかと思いますし、日本人が誇りとすべき“福祉の力”であるし、危機的状況に追い込まれつつある現代の子ども達支援に生かすべく思い出されてなくてはならない歴史的遺産です。私にとっては「研修」以上に大事な訪問でした。

 石井十次の日記等を開くとドラマチックにその活動は始まり展開していくのがわかります。 216日 少年音楽隊とともに四国高松より帰院。
 217日 突然ぺテー氏が来訪し、東北孤貧児救済の必要性を訴えられます。石井は気になっていた事でもありすぐに決断。ぺテー氏は、神戸で同じ宣教師デホレスト氏よりその悲惨な状況を聞いて来たのです。デホレスト氏は仙台在住であり、東三番丁にあった組合教会に属していました。
 記録によりますと、前年の1130日にはすでに、仙台市内のキリスト教各派教会外国人宣教師5名が集まり、凶作救援について協議したとあります。その後デホレスト氏は上京し在京外国人や海外へ向けて義捐金募集を行います。その流れで神戸へも下ったと思われます。
 219日  朝6時すぎの列車で上京。東北凶作地視察と支援体制作りのためです。「大胆の中に妙法あり」と言ったのは石井ですが、1000人の子どもを救う覚悟です。そのため3万円(今のお金に1円を1万円と換算すると3億円)の借金を予想します。今の常識では考えられず無謀としか言いようがありません。ちなみに、その頃の岡山孤児院の入所児は360人ほどでした。石井にとっては神の導きとしても恐ろしいほどの決断力です。

 ここが事業家石井らしい所なのですが無計画に猪突盲進していくわけではなく、用意周到です。まず東京で東北三県に乗りこむための準備です。
 220日  午前中、青山学院にハリス氏と本多庸一氏夫妻を訪ねます。バス氏は当時メソジスト教会の日本総監督であり、まずこの人を訪ねたのにはそれなりの理由があります。ハリス氏はすでに28日、仙台に宣教師として赴任しているミス・フェルプス氏等を訪ねており、飢餓の状況報告を聞いて子ども達を施設に保護することの必要性を唱えていたのです。このハリス氏の夫人は当時のルーズベルトアメリカ大統領に義捐の要請をしたとか。その人脈の広さが想像できます。同じ収容保護を考えている石井にとっては、強い味方を得た思いだったことでしょうし、話も盛り上がったことでしょう。フェルプス氏に会うように指示したのもハリス氏であると思われます。本多氏は仙台のメソジスト教会牧師をしたことがありその基礎を作った人であり、この活動を始めるにあったって、キーとなり得る仙台や福島の人々を紹介してくれたに違いありません。
 221日  早朝、上京中であった桧垣岡山県知事を宿に訪ねます。朝がけというやつです。石井の計画を聞いてびっくりしたでしょうが一応賛同(石井は日記に「大賛成を得」と記しています)。午後内務省でもう一度会って、宮城、福島、岩手の三県知事を紹介してもらい三知事に面会。知事会が行われていたのでしょう。幸運でした。大勢の子ども達を収容保護するのに行政の協力支援を欠かすことはできません。
 そうこうしているうちに、宿にデホレスト氏が訪ねて来ます。おそらくぺテー氏がぜひ会えと電報でも打ったのでしょう。日記には「種々孤児院設立意見をきく」とだけ記されています。もしかしたら組合教会でも孤児院設立を考えていたのかもしれません。重要な生の情報を色々と得たに違いありません。ハリス氏はメソジスト派であり、デホレスト氏は組合派。組合教会に属する仙台のキーマンを紹介されたことでしょう。

 もう一人大切な人を訪ねています。原胤昭氏です。原氏宅には東北からの帰り(27日)にも寄り、「岡山孤児院孤児救済所」(つまり仲継所)をこの「原氏宅にすることについて同意を得ています。相当大きな邸宅であり、子ども達を泊めるには適当であったと思われます。これで一応、石井の側の支援体制のための大まかな設計図ができたと言ってよいでしょう。石井も「予定の如く三県下に乗り込むべき準備出来」と記しています。

 222日 「午前1040分発列車にて上のを出て福島」に向かいます。福島に着くとまず県庁を訪ね、その後今井信蔵氏等を訪ねています。今井信蔵氏は福島メソジスト教会の牧師、ここがその後子どもの一時保護所「福島救済所」となります。今井氏は後に、ある紙面で石井十次の委託を受けて児童の救済に着手したのは223日からと書いていますから、石井及び岡山孤児院がいかに信頼されていたかが分かります。人の命を預かるボランティアであり、責任重大ですが、要請されて次の日から行動するというのは、よほど事態が切迫していたというのもあるのでしょう。
 223日  再び午前中に県庁を訪ねた後、午後岩沼を訪れ、佐々木純一氏等を訪ね佐々木氏宅を「岩沼救済所」に定めます。その後「午後810分の列車にて仙台に向ふ」とありますから強行軍です。
 224日  日記「やれば出来る やらねば出来ぬ」。まず訪れたのが東三番丁の仙台組合教会です。片桐清治牧師が待っておられました。組合教会はぺテー氏と同じ教派で、デオレスト氏はこの教会の宣教師です。使命感に燃える石井をあたたかく迎え入れて下さったことでしょう。当然、この教会が、「仙台救済所」となります。

 実は、凶作地の救済活動を始めたのは外国人宣教師だけではなく、キリスト教各教派の日本人牧師達で「東北凶作救済会」が1月初旬に結成されていました。全国各地へ義捐金募集を呼びかけながら金品を直接配分していたそうです。片桐氏はこの救済会の発起人でした。話は一挙に進展したことでしょう。
 ちょうど石井と入れ違いのように、226日、仙台クリスチャン教会牧師北野高弥氏と仙台メソジスト教会牧師川澄明敏氏が岡山孤児院を訪れています。全国に募金して回る途中に寄ったものと思われます。
 この「仙台救済所」は、4月上旬から「東北凶作救済会」事務所の置かれていた北野氏の教会に移されていますから、一体的に救済活動が展開されたと見てよいでしょう。
 仙台は東北地方の中心都市。キリスト教各派は、明治10年代から20年代頃までには競ってこの地に教会を設立し、布教活動を行っていたようです。メソジスト派が最初に仙台に入ったのが明治18年それに比べて組合教会の方は、同志社の新島襄の支援によって宮城英学校が明治19年にまず設立され、その翌年に地元の関係者によって創立されたようです。他に仙台神学校(後の東北学院)、宮城女学校、尚絅女学校等のキリスト教の私学校も次々にこの地に設立されていますから、明治39年頃には、キリスト教文化がこの地にある程度根付いていて、このような災害時に支援の輪を作るにおいて充分なエネルギーとなり得たということができるでしょう。もちろん仏教系の支援もあったようですが、ここでは取り上げません。

 話をもどします。この24日の午後には、県庁へ行き打ち合わせをし、そしていよいよその後ミス・フェルプス氏に面会します。しかし、日記には「『フェルプス』嬢を訪ふ」とだけしか記されていません。フェルプス氏はメソジスト派の婦人宣教師です。1861年生まれですから石井よりも4才年上、この時44歳。最初に仙台に赴任したのは明治26年頃から明治37年まで。この間に貧しい家庭の女子を教育する私学校「自動館」を設立しています。その後アメリカに一時帰国し、明治38年から明治39年の初めまで東京にいたそうですから、この凶作については充分に把握できてなく、石井にとっては、この時はあまり頼りになる存在ではなかったのかもしれません。
 フェルプス氏は、すでに28日にハリス氏より孤貧児救済保護(収容)についてハッパをかけられていたわけですし、石井の巨体から吐き出される熱い思いに圧倒されながら同調したことでしょう。それから3日後の227日、7名の貧孤児を東三番丁のメソジスト会員宅に収容したのが仙台キリスト教育児院の始まりとされています。

 もう一つ、書きとめておかねばならない石井の重要な戦略があります。それは新聞各社への協力依頼です。例えば福島では三社を訪ねていますが、そのうちの一つ福島民報(225日付)には次のように記された箇所があります。
 「岡山孤児院が全部の費用を支弁す」「福島町迄連れ来る費用なき人には旅費を給し衣類なき子には衣類をも支給すべし」
 「岡山孤児院は内外慈善家の寄付金賛助員の賛助費其他を以て維持しあるものにして其父兄には何等の累を及ばすことなし成年の後其父兄其親戚に於て養育し能ふるものある時は之を送還するも其費用等を要求せす」
 「高等小学校を卒業せしむ若し学力優等なるものにして有望の少年には他の補助によりて更に教育せしむ」
 そして、「本社及び福島町美以(メソジスト)教会に申し込むべし」と呼びかけるのです。 もう一つの東北新聞(225日付)には、「若し其義務教育の年度内といえども家政整理の結果養育し得ざるに至りたる時は何時にても退院を許す」とも記されてあります。

必要な旅費はすべて出しますよ、施設生活に用する費用はすべて無料です、院内には小学校もありますが、優秀な子は上の学校にも進学させます等、内容は文句のつけようがありません。多くの親が安心して預けることができたのでしょう。新設の仙台キリスト教育児院もこの内容を見習ったものと思われます。
 フェルプス氏との面会を終えた石井は、午後750分の夜行列車で帰途につきます。225日、26日、27日は東京滞在です。その間の記録はほとんど残されていませんが、おそらく支援の和、輪、環作りのために、重要な人物を訪ね歩き、鬼気迫るような勢いで支援要請を繰り返したことでしょう。

以上のような石井十次の10日間があり、その後多くの子ども達が救出され3月から5月にかけての大移動も成功したわけです。6回に分けて825名の子ども達が無事に岡山に到着することができました。その結果岡山孤児院の子ども達の数は1200名を越えることになりました。
 後に石井は次のように書いています。
「十五六万円の特別寄付金も集りしも三百八本位の孤児院頓に千二百人の大家族に膨張せしため其後満二年六ヶ月間に経常費に三万円敷地建物に六万円計九万円の借金をなすに至れり」(明治4110月)

今回、私は仙台キリスト教育児院を訪れるということになり、もう一度記録類の関係部分を読み返してみました。残っているのは数字や文字だけですが、その行間からは、石井の馮かれたような熱い思い、そしてキリスト教関係者達の和、輪、環のエネルギーが伝わってきます。今、私達が学ぶべきはこれだと思います。その結晶が仙台キリスト教育児院であり、岡山孤児院だと思うのです。私達福祉現場人にとって学ぶべきは、その結果よりもその過程です。

 育児院を訪問する予定は、大会終了した後1030日午後でしたが急きょ29日午前中に変更させていただきました。友愛園内に広がり始めていた新型インフルエンザが止まらず職員にまで感染者がでたという電話が入り、途中で切り上げて帰ることにしたからです。
 現園長の鈴木重良先生がわざわざ会場から施設まで車で送って下さいました。院長の大坂欣哉先生は玄関の外で待っていて下さり、初めての訪問であるのに何故か懐かしさを感じました。話の後、北山墓地にあるデホレスト夫妻のお墓、そして東三番丁まで案内した下さり、私は今回の目的を達することができました。感謝申し上げます。大坂氏に見せていただいた明治時代の地図によると、東三番丁界隈にはキリスト教各派の教会や外国人宣教師達の宿舎、そして私学校等が集っていました。しかし、今は東京と変らないビル街に変貌し、ただ組合教会跡地だという医院の駐車場の桜の老木だけが歴史を感じさせてくれました。私はその根元にころがっていたレンガ色の瓦のカケラを拾ってから、すぐ近くの仙台駅へ向かいました。  

           


     ―2009年10月―
         支えて下さる人々

 103日午前中は故壹岐敏也氏の50日祭(神式)と納骨式に、午後は、宮崎市広島1丁目の石井記念こひつじ保育園ホールで開催された石井記念友愛社後援会「石井十次の会」宮崎支部設立集会に出席しました。柿の実輝く秋晴れの一日でした。

 壹岐氏は、石井記念友愛社の後援会設立(平成9年)時の発起人の一人であり、それ以来ずっとボランティアで会計監事を引き受けて下さった方でした。私の母方の親戚でもあり、随分公私共に御支援いただいて来た方で、もし親族という関係になければ、社会福祉法人の役員に加わっていただき、その専門知識と高潔な御人格によって御指導いただいたであろう人でした。元税務署長で税理士であり、税金問題では何度も相談に乗っていただきました。石井記念友愛社は法人の役員の方々を初め、実に様々な()職種の方々に支えていただいています。まさに和・輪の組織であると言うことができます。

 日々の業務は法人組織の職員達によって遂行されていくのですが、社会福祉という仕事は今、常に地域の中に地域と共にという意識を欠くことができず、それがなければ自己完結的な閉鎖的世界にどんどん自分達を追い込んでいきます。国民の税金を使い強い行政指導の下で運営されていますので、行政の顔色さえうかがっておれば、地域から浮いた漂流舟になったとしても表面上は無難に運営がなされて来たのです。
 高度経済成長期のように個々の家庭や地域が元気で、官民一体となってエネルギッシュに社会が躍動していた時代であれば、地域の一構成メンバーとしておとなしく与えられた仕事に取り組んでおればよいのかもしれません。しかし今は時代が違います。家庭や地域が本来の機能をどんどん失っていき、格差社会と言われるように家庭間地域間の格差が顕著なものとなって、行政も昔のような地域への指導力を持てなくなった現状の中で、地域の中に点在する各福祉施設は、その存在意義を問われていると言ってよいでしょう。

 地域の中の公的な社会資源として、一歩でも二歩でも踏み出してお役に立っていかねばならないのです。我々福祉人は地域の様々なニーズに向き合い、行政をも巻き込みながら答えていく責任を担っていると思います。しかし、現実には職員は日々の仕事に精一杯で、とてもそんな余裕はない一。
 宮崎市にある石井記念こひつじ保育園は、平成3年に財団法人正幸会より経営移管させていただいた施設です。私はすぐに改築に取りかかり、老人デイサービスセンターとの複合施設として再スタート(平成6年)することができました。今から15年前、私の理事長としての初めての大仕事でした。
 私は次の時代を見越して、地域に開かれた施設にしたいと考え、保育園とデイの複合以外に多目的ホールを2階に作り、全体名称も「石井記念福祉文化センター」としました。地域のボランティアやお年寄り等が自由に立ち寄り、お茶でも飲んでいただけるような喫茶コーナーも準備しました。

 しかし、現実には時が流れただけであると言ってもよいかもしれません。職員には、どうしても外に目を向ける余裕が出て来ないのです。保育園やデイサービスの業務に追われて、余力が出て来ないというのが現状なのです。だからと言ってこのまま放置しておれば、特にデイについては、やがて地域から忘れ去られ淘汰されていくことでしょう。
 そこで救世主として登場して下さったのが、「石井十次の会」の宮崎地区幹事飯尾彪、児玉勇、太田守人、谷口俊博の各氏です。今回宮崎支部立ち上げのために奔走して下さり、この度103日にスタートすることができたのです。支部長には飯尾彪氏が選出され、16名の役員もそれぞれに決まりました。来賓として、宮崎駅前商店街振興組合副理事長の金丸様、駅前地区自治会会長の山田様そして地区の民生児童委員の寺田様に御出席いただけたことは幸いなことでした。また「石井十次の会」本部からは、会長の内田聰様、副会長の清郁雄様、森さち子様、そして「石井十次の会都城支部」からも支部長の持永ナミ子様他の3名の役員の方々が激励にかけつけて下さいました。集会の後の立食の交流会にも皆さん参加して下さり、盛り上がっていました。
 今後、宮崎支部の後援会の方々が、このこひつじ保育園を足がかりに、様々な和・輪作りにボランティアとして活動して下さることでしょう。施設とボランティアと地域とが一体となり得た時に初めて、ニーズに本当に答えていけるようになるのであると思います。よろしくお願い致します。

 自宅に帰ったのは夜
9時頃でした。満月が空に輝いていて、1月に亡くなった息子を思い出しました。天国で見守っている息子や壹岐氏のためにも期待・信頼に答えるべく努力していこうと思いました。ここに支援者のお一人であった壹岐敏也氏の葬儀(817日)の時読ませていただいた弔辞を掲載させていただき、その御支援に改めて感謝しながら、前進していくことを誓います。

 壹岐敏也様の御霊前に謹んで申し上げます。大先輩を前にして「壹岐さん」とお呼びすることをお許し下さい。壹岐さんは私の最も尊敬する人物のお一人でありこのような形で世を去られ、深い悲しみと淋しさに襲われています。

 壹岐さんは今まで何度も大病と戦い勝利して現役復帰をされて来られましたので、今回も必ず退院されて、また元気にお仕事をされると信じておりました。   

壹岐さんもそのおつもりで戦っておられるとお見舞いの時感じ、頼もしく希望を持っておりました。それがかなわず無念だろうと思います。私も残念でなりません。

 壹岐さん、83歳というお年と10年間にわたる透析で弱ったお体が、壹岐さんの強い精神力にもう付いて行けなくなったのだと思います。辛い別れではありますが、まずはゆっくりお休み下さい。壹岐さんもう充分に世のため人のためにお働き下さって来たのですから一。
 繰り返します。壹岐さんは、私の最も尊敬する人物のお一人でありました。大正15年にお生まれになり高鍋の学校を卒業されると志を抱いて朝鮮半島に渡られ、香港で兵役に着かれ、1年間ほどの捕虜生活も体験されたそうですね。20歳前後の海外生活ですが、戦争の時代であり、おそらく様々な苦難を乗り越えながら日本へ帰って来られたのであろうと思います。
 壹岐さんの病気との戦いは、その様な戦争の時代との戦いと重なるものであったのかもしれませんね。日本に帰国されやがて税務署に勤務されるようになり38年間奉職され、最後は高鍋税務署の署長をされました。
 高鍋に帰って来られた時、おそらく私の父児嶋虓一郎からの要請があったのだと思いますが、58歳で税務署を退職されるとすぐに高島産業株式会社の茶業部門に関わるようになられました。その頃、茶業は危機的状況にありました。その10ヘクタールの土地はもともと石井十次等の開いた農場であり、戦後は私の父が管理しておりましたが、厳しい経営状況に追い込まれておりました。その茶業部門を農場を管理されていた長野さんとの協力のもとに見事に立て直されました。

 それと同時に、柿原政一郎先生の作られた財団法人「正幸会」の方にもボランティアで関わって下さり、父の亡き後、事務局長的立場で立派に「正幸会」を維持管理されて来られました。もちろん、この地域での税理士としてのお働きもあります。
 その業績は偉大であります。税務署をやめられてからもこの地域の発展のために休む暇なく25年間働きづくめで、現役のまま天国へ旅立たれました。

壹岐さん、後輩の私から言うのも失礼になるかもしれませんが、立派な人生でしたね。

私は壹岐さんとお会いする時、その誠実さと今日のお写真のような凛々しさに常に惹かれました。税務署長にまでなられたのに、お役人的な言葉、振る舞いはみじんも出されず、常に自分を控えて誠実に物事に対処されていました。そのお姿は見事と言うしかありませんでした。 特に父が亡くなってから、陰に日に、壹岐さんは私を支えて下さいました。石井記念友愛社も特に税に関する問題については、常に助けていただきました。壹岐さんはどう思われていたのか分かりませんが、私にとっては石井十次の系譜に属する方でありました。日本人魂を持った高鍋の精神文化を体現された方でした。
 歴史が作られていくためには表舞台で活躍する人も必要でしょうが、壹岐さんのように広い視野と高い人格を持ちながらも、自分を無にして現場に徹して着実に事を進めていく人も必要です。両者がいて、初めて事業は成り立って、地域は発展していきます。壹岐さんの御功績は、キチンとこの地域の歴史に刻まれなければなりません。

壹岐さん、今まで色々とありがとうございました。心から感謝申し上げます。淋しくなりますが、壹岐さんの御人格を模範としながら私も誠実に生きていきます。これから、天国で見守り下さい。ありがとうございました。

                 


     ―2009年9月―
       友愛の地域社会つくり

 今回の衆議院選挙、予想を越えた民主党の圧勝で、九州の片田舎に住む私までもが驚き、そして新聞の解説等を興味深く読んだりしています。今回の選挙で色々考えさせられることはありましたが、この日本人の選択が、不安はあるけれども希望ある未来作りの第一歩になっていくことは間違いないのでしょう。そうなることを、国民の多くが望んだということだと思います。民主党の代表鳩山由紀夫氏が内閣総理大臣のイスに座られるのももうすぐです。鳩山氏と言えば、「友愛」が政治信条だとか。祖父の鳩山一郎元首相から引き継ぐものだそうですが、今後この「友愛」という言葉をどう使っていかれるのか気になるところです。

 石井記念友愛社は、どんな政党からの支援も受け入れる団体ですが、鳩山首相の「友愛」の使い方によっては、新しい政権に親近感を抱くようになるかもしれません。ちなみに、石井記念友愛社の「友愛」は、聖書の言葉「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書1513節)から来ています。もとは、石井十次が明治42年、大阪の貧民街を視察し、その救済活動(夜学校、保育所等)をする際の団体名として使おうとした言葉です。聖書の話からインスピレーションで生まれた言葉でした。大阪の福祉事業としてはすぐに使われなくなり、戦後、この茶臼原で事業を再興する際に「石井記念友愛社」として蘇ったのです。

 さて、今年の「石井十次交流会」(830日)は、ちょうど衆議院議員選挙投票日と重なってしまいましたが、参加者も250人近く集まって下さり盛況でした。今年の講演は岡山にある国際医療ボランティア団体、AMDA(アムダ)代表菅波茂氏にやっていただきました。菅波氏は岡山大学医学部を卒業され、医者としても活動されてきたのですが、1984年にAMDAを設立、現在では世界30カ国に支部があり、災害や紛争が発生すると多国籍医師団を結成し、医療・保健衛生分野でボランティア支援活動を展開されているそうです。

 氏の話は期待どうりでした。氏は最前列にすわっておられた高鍋町長さんに次のように提案されました。町長さんは突然のことでとまどっておられましたが、氏の「友愛」のスケールの大きさを目の前に示され、私自身、精神を鼓舞される気持ちがしました。「高鍋には、立派に世界に通用する歴史、精神文化がある。アジアから5人くらい福祉活動をしている人を招いて、子どもサミットを開いてはどうか」。

 以下は、「石井十次交流会」での石井記念友愛社理事長としての挨拶です。(メモもとにここにまとめました。)

 今年度から、石井記念友愛社では、理念・方針以外に到達目標「友愛の地域社会つくり」を掲げています。この到達目標について、どういうものをイメージしているのか、説明させていただきます。

 大分県の高崎山には、野生のサルが住みついています。おサルさん達は、若者は若者だけ、子どもは子どもだけ、年寄りは年寄りだけ、障がいを持つサルは障がいサルさんだけというように別れて群れているかと言うと、そういうことではなく、みんな一緒に互いに支えあいながら生きています。しかし、人間世界では、専門的処遇という名のもとに、特にお年寄りと障がい者については隔離政策が行われて来ました。私達はそれに対して、何の疑問も抱かずにそれを受け入れて来ました。つまり、お年寄りや障がい者との触れ合いをできるだけさせない地域社会作りを福祉の名のもとにめざして来たと言えるのです。もう一つの時代の特徴があります。日本は元々大家族制度の中で子育てをして来ました。日本だけではなく人類はと言ってもよいでしょう。若者は外に働きに出て、お年寄りが子どもの面倒を見て来たのであります。

 戦後の高度経済成長の過程の中で、あるいは、西欧の個人主義的価値観の受け入れ普及の中で、大家族制度は崩れていきました。核家族化と表現されています。若い夫婦だけで子育てをすることが主流になり、また夫婦共働きも多くなって、その家庭を補充するために保育所が次々に設置されていきました。そして、戦後64年がたちました。子ども達の心は健全に育っているのでしょうか。危機的状況にあるというのが私の感想です。

 介護職を志す若者が減っていると言われます。近くの専門学校等でも介護福祉学科の募集を停止しました。3Kの現場であるとか給料が安いというのが原因であると言われていますが、果たしてそれだけでしょうか。若者にとって、お年寄りという存在を受け入れられなくなって来ているのではないか、そんな気もするのです。年に1回とか、小学校や保育園の子ども達が老人ホームを慰問したりします。思いやりの心を育てる「心の教育」ということになっています。しかし、子ども達の心の中では逆の結果が出ているのではないか。人間は誰しも年をとれば肉体が衰えていきます。手は枯れ枝のようにゴツゴツになり、顔もしわくちゃになっていきます。加齢臭とか言うそうですが特有の臭いも発散するようになります。

 そういうお年寄りの前に立たされ握手をするように命じられた時、子どもは動物的に反応します。後ずさりし、手を引っ込めるのです。家庭においてお年寄りとの交流のある子どもはそうでもないのでしょうが、お年寄りに慣れてない子どもは生理的に受け付けないのです。「心の教育」の名のもとに行われているこのような行事が、かえってお年寄りへの嫌悪感を育てているのではないかと、私は恐れています。それでは、それを克服するために何をすべきなのか。私は日常的に触れ合うしかないと思っています。お年寄りの優しさ、あたたかさ、生きた文化が伝わるまで、交流を重ねていくのです。昔の大家族的触れ合いが理想ですが、時代を逆もどりさせることはできません。だとするならば、地域の福祉施設が大家族的な機能を持つようにすればよいのです。大家族的機能を持つ福祉の拠点を地域の中に作っていくのです。宮崎市にあります石井記念こひつじ保育園とこひつじデイサービスセンターとの複合施設、そして高鍋の石井記念にっしん保育園とじゅうじの家デイサービスセンター、小規模児童養護施設じゅうじの家との複合施設は、そういう大家族的触れ合いを目的とする施設なのです。子ども達は施設の職員達がお年寄りを大事にする後姿にも日常的に接しますので、お年寄りへのいたわりの気持ちも生まれて来るでしょう。そういう環境の中で育った子ども達は、将来、介護の問題にも積極的関わろうとするのではないでしょうか。

 次に障がい者との関わりについてですが、数日前ある全国紙の新聞記者が虐待問題について取材したいと訪れました。北部のある市で若い母親による虐待死事件が発生し、その取材を通してより深く広く解明する必要性を感じられたようでした。私はその若い記者に対し、次のように答えました。
「施設にも虐待が理由で入って来ている子どももいるけれど、私は、その親を責める気持ちにはなれません。親自身が重い荷物を背負わされてる場合が多いのです。例えば障がいを背負っている親を責めても、問題の解決にはなりません。そういう親達を支える新しい社会の仕組みをもっと考えていかねばならないのではないですか」
 私達は、どんな障がいを背負っていても、本人が望めば、子どもを生むことを人権として認める社会の中で生きています。平成18年度に障がい者自立支援法が成立し、これから徐々に障がい者が地域の中で自立していける社会作りに向かって努力を重ねていくことになります。石井記念友愛社の茶臼原自然芸術館はそのための施設です。障がいを持つ人で家庭を持つケースはどんどん増えていくでしょう。今まであまり障がい者と接する機会の少なかった子ども達は、どこでその人権について学ぶのか。知識としてではなく感性の次元でです。

 これからは、障がい者の方々と共生し合う地域社会作りを、子どもも交える中で考えていかねばならないのです。年令や障がいを越えて、みんなで支え合い助け合って幸せを求めていく共生の地域社会作り、それが「友愛の地域社会つくり」ということになるのでしょう。我々石井記念友愛社の一人一人の職員は、それを実現するためのコーディネターにならなければならないのだと思います。

            

   ―2009年8月―         
             
共生          

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ヶ月半ぶりに宇宙船から地球に帰還した若田光一さんは、記者会見で、「ハッチが開くと草の香りが機内に流れ込み、地球に優しく迎えられた気がした」と語ったそうです。この「草の香り」という言葉に、新鮮な清涼感を感じたのは私だけではないでしょう。この緑の地球は、草の香りに満ちた生命集合体であったのです。私達は日々その香りの中で生きていますので、、何も感じなくなっていますが、そういう生命の匂いに包まれて日々生活できていることに感謝しなければならないでしょう。

 ところで、私はこの4ヶ月間ほど、毎朝、小さな“宇宙船”に通い続けています。すみません、宇宙船と言っても、そこは小さなビニールハウスです。今年初めて、長さ20mほどの本格的ビニールハウスを作り、その中でトマト栽培に挑戦し続けているのです。ハウス農家の方から見れば、ちゃちな遊び事のように見えるのかもしれませんが、化学肥料を使わず、完全無農薬栽培によるトマト作りを始めたのです。
 30年以上、この友愛園の農園で様々な野菜作りをして来ました。しかし、トマトだけは、露地では無理という結論に達し、それ以来手を出すことはありませんでした。同じ種類のナスやピーマンは梅雨の時期も耐え忍び成長し続けてくれますが、トマトは脆弱(ぜいじゃく)で、すぐ病気にかかってしまいます。また、虫もつきやすく、油断すると、あっという間に見るも無残な姿と化してしまいます。

 今年度は、茶臼原自然芸術館のオープンに合わせて、思いきって20mのビニールハウスを2棟作り(1棟は芸術館が管理)、その中で、トマト栽培を試みてみることにしたのです。トマト作りは、私の長年の夢でしたし、この年齢でやるからには、一切農薬や化学肥料を使わず安心安全なものにしたいと考えました。
 4月上旬にミニトマトと大玉トマトの苗を20本ずつ購入。ハウス内に定植した後は、毎日早朝の水やりが私の日課となりました。そのうちにグングン成長を始め、脇芽をさし木して苗を2倍に増やし、竹を立てての誘引作業も始まります。天井のパイプからもヒモをたらして、支柱を越えたものは天井からつるすようにして伸ばしていきます。

 人手の必要な作業については、園の職員・子ども達に手伝ってもらい管理していきます。ミニトマトの方は成長が早く、最初1本で仕立てていましたが、途中から2本にして、伸びたい方向へ自由にどんどん成長させていきます。今や4m~5mになっており、ブドウ棚のような状態になりつつあります。そして、そこに鈴生りに赤い実をつけています。水をやりながら何個か口にいれるとデリシャス!!
 最初の頃30分程度ですんでいた水やり手入れも、次第に時間が伸びていき、最近では1時間程度かかっています。トマト栽培がこれほど手のかかるものだとは予想しませんでした。大変なのが脇芽切りです。すごい勢いで成長していき次々に伸び始める脇芽を剪定してあげないと、収拾のつかない状態になります。放置しても実がならないわけではないのですが、縦横無尽に伸びた枝に一挙に実がなると、エネルギーを使いはたして、枯れるのも早くなってしまいます。私は、細く長くできれば霜が下るまで、生き延びて実をつけ続けてほしいと願っているのです。
 最近では、朝4時すぎにはだいたい目が覚めてしまいます。起き出してコーヒーを飲みながら本を読んだり、新聞を広げたりして過ごし、6時前には、愛犬コロを連れてハウスに向かいます。今、この時間帯が私にとっては一番充実した一時かもしれません。「ハウスでトマト達が待っている」そんな気分です。私にとってのこのビニールハウスは、スペースシャトル「エンデバー」なのです。

 若田さんにはかないませんが、私もこの20mほどのハウスの中で様々な実験をしています。紹介しましょう。
 まず土作りです。人間の体には60兆の細胞があり、それらはそれぞれ役割分担しながら肉体を形作っているそうです。しかし、これだけで生命を維持しているわけではありません。その細胞より多い100兆の常在菌達との共生の中で、 外からの栄養を取り入れているのです。腸の中にも善玉菌もいれば悪玉菌もいます。わたしの腸の働きは悪い方なので毎朝ビオフェルミン錠を飲んでいますが、様々な菌のバランスが大事です。
 私達の腸を裏返した状態がトマトの根っ子とも言えます。根っ子が病気に冒されず安定して土中の栄養を吸い上げてくれるように、土を良い状態に保っていかねばなりません。化学薬品も化学肥料も使わないと決めましたので、その代わりにどうしたか。

 肥料は元肥として堆肥(牛糞)、追肥として米ヌカと油カスを使っています。そして、時々、ニガリとEM菌の薄めたものを土にまいています私はこのニガリが重要な役割を果たしてくれていると信じています。これは近所の大島覚さんの紹介で日向の塩製造所(児玉憲幸様)から寄贈でいただいたものです。普通は豆腐を固める時に使う位ですが、生命の維持、成長にとって必要な様々なミネラルが含まれており、これらを補給してあげることは、植物達にとってはありがたいことでしょう。連作障害というのは、ミネラルの欠乏から来ているのかもしれません。
 考えてみれば、動植物は死んだらすべて土にかえります。そして雨が降ればそれらは川に流れていき、やがてすべては海に集まります。海の水の中には、生命の源がすべて含まれていると言ってもよいのです。その海水を煮詰めて水を抜き塩を取った残りがニガリですから、もっともっとその活用法は研究されてしかるべきでしょう。
 米ヌカをまいて連作障害を克服したという本を読んだことがありますが、この米ヌカも生命の源です。胚芽の中には、やがて芽となり成長のエネルギーとなる生命にとって一番大事な部分が隠されているのです。友愛園では米も作っていますので、精米の過程で出るこの米ヌカは今後大いに活用していきたいと思ってます。
 EM菌は、私が飲むビオフェルミンのようなもの。土の中で根っ子が悪玉菌に冒されるのを予防してくれているのであると思います。それでもこの頃大きいトマトの方で葉っぱがいじけたような形になっているものが23本あり気になっています。ウィルス病であるならば引き抜いて捨てねばなりませんがもう少し様子を見たいと思います。線虫病の予防として、マリーゴルドを根元に植えているということも記しておかねばなりません。

                     

 次は土の上の病虫害対策です。まず湿気に弱いトマトを雨から守ってやるというのが第一です。だからビニールハウスの中で育てるのです。トマトの原産地は南米の乾燥した荒地だとか。水をやりすぎないことも大事です。毎朝、私はトマトの御機嫌を伺いながら水をかけています。雨が降った翌朝はまかない時もおあります。農薬はかけないかわりに、時々散布しているのが、先ほどのニガリとEM菌と竹酢との混合液を薄めたものです。ほとんど葉の病気にはかかっていませんので殺菌効果はあるのでしょう。しかし、防虫効果については疑問です。8月に入ってビニールハウスの周囲に防虫ネットを張りめぐらしましたがすでに遅しで、今、夜盗虫との格闘が続いています。ネットを張った時にはすでに卵を産みつけた後のようで、もっと早く張るべきでした。毎朝まるまると太った虫を数匹ずつつまんでは足でつぶして土に帰ってもらっています。申し訳ない気もするのですが、トマトを守るためにはこれしかありません。これから夜盗虫の季節、油断はできません。今までの野菜作りの中で、夜盗虫に負けた経験が数えきれないくらいあります。またハウスの天井からは、蜂蜜の入ったペットボトルを3本ぶら下げて、成虫を捕獲しています。

 虫だって生きのびるためには必死です。竹酢をまく時、ドクダミを入れてみたり焼酎を混ぜてみたり色々してみましたが、殺虫効果はほとんどゼロ。だとするならば虫と共生することも考えねばならず、私は、トマトの根元に三東菜や小松菜の種を播きました。言わば「オトリ作戦です」。成虫がどこからか飛んできて、卵を生みつけようかなと思った時、トマトより柔らかくておいしそうな山東菜の方へ行って卵を生みつけてほしいという願いがこめられています。貪欲な夜盗虫は対象を選びませんが、他の虫達は、私の作戦通り、下の方へ行ってくれています。おかげで山東菜達は、虫達に食い尽くされあわれな姿となっています。

 もう一つ、今回のトマト栽培において私が実験していることがあります。それは「コンパニオンプランツ」。野菜類をうまく組み合わせて植えることで、病虫害を防いだり成長を促進したりという効果が期待できる場合、概念的にそう呼ぶのだそうです。私は、トマトの間にネギを植えています。最初植えた時は違った目的でした。ネギは1年中食べる野菜ですが、梅雨の時期、雑草に覆われているうちにとけてなくなってしまいます。トマトと同じように雨に弱い野菜ですので、ハウスの中で栽培すれば1年中元気に育ってくれると考えたのです。後でトマトとは「コンパニオンプランツ」の関係にあるということを知りました。マリーゴールドもそうです。現在、ハウスの両側には。防虫ネットを守るように青ジソが勢いよく成長しています。青ジソには虫がつきにくいですので、防虫ネットをくぐって侵入しようとする虫たちをその独特な匂いで防除してくれるのではないかと期待をこめて、昨年我が家で取れた種を播いてみたのです。効果についてはまだよく分かりません。他にサラダ菜等も植えました。

 皆様、ここまで読んでいただきありがとうございました。野菜の栽培等に興味のない人にとっては退屈な駄文だったのでしょう。しかし、私にとっては、この20mほどのビニールハウスの中が、今、一つの宇宙船になっており、多少の犠牲はあるもののその中で虫や野菜や細菌達が共生し合いながら生きていくことに感動を覚え、書かずにおれなかったのです。虫は夜盗虫や青虫だけではなく、クモもカマキリもチョウも実に様々な昆虫が生息しているのです。

 7月中旬、ある宗教団体の新聞の取材があり、私は次のような話をしました。
 大分県の高崎山のおサルさん達は、お年寄りや障がいを持つおサルを排除しているわけではなく、みんな一緒に群れながら生きています。人間だけが専門性の名のもとに隔離してきました。石井記念友愛社は「友愛の地域社会作り」という目標を掲げて、その再統合をめざします。具体的には、地域に大家族的機能を取りもどすのです。

 大自然の生物達の共生関係を見つめていると、人間だけがその摂理に反することをして来た(している)のではないかと感じます。




2009年7月
      天を望む

 もう、ちょっと以前の話です。何かの用で上京した際、羽田空港の店先で、若い女性が呼び込みらしきことをしていました。しかし、「いらしゃいませ」と言ったような普通の雰囲気とは明らかに違って、ジェスチャーをしながら、一人芝居をしている。そのように見え、また、彼女の視線は上方に向けられ、天の神に向かって何やら語りかけていると言った感じでした。空(くう)を見つめて手を広げながら、一人言を言っている彼女の姿が非常に印象的で、私は一瞬立ち止まって見とれてしまいました。すごく魅力的な表情であり、古代の巫女(みこ)は、あんな雰囲気で人々の前に立ったのではないかと妄想はふくらみました。ああいう呼び込みが商売にプラスになったのかどうかはわかりませんが、不思議に、あの時の情景を時々思い出します。

 息子を交通事故で突然亡くして、しばらくの間、地面をじっと見つめながら歩いている自分に気づいて、無理に視線を上げようとしたことが何度かありました。人間は考えごとをしていると、自然に視線は下へと向いてしまいます。表情も暗くなっていきます。落ち込んでいく自分を見つめる目がどこかにあり、その目が視線をできるだけ上に向けさせることで、危機を脱する術を我が身に教えてくれたのではないかと、今、感じています。
 私的なことですが、この1月に亡くなった次男森次郎の納骨式をこの5日にすませることができました。早いもので亡くなってからもう半年になります。司式は、日本基督教団高鍋教会牧師近藤野百合先生にお願い致しました。この日は、児嶋虓一郎記念式(創立記念式)を午後4時から行うことになっていましたので、その日に合わせて、午後3時から家族・親族、それに九州保健福祉大学の山﨑先生とゼミ仲間だった二人の学生さんにも加わっていただき厳粛に行なっていただきました。

 賛美歌465番「神とともにいまして」を歌いながら、無性に悲しくなり涙が流れました。見上げると、大きな樟(くす)の木の木漏れ日がキラキラと光り、梅雨明けが近いことを暗示しているように感じました。
 森次郎の魂(霊)はすでに天国にあるのですが、これで肉体も完全に地に帰ることになります。これからは、親子の絆を越えて、彼は、私達家族・親族を、そして友愛園の職員や子ども達を守ってくれるのだと思います。
 私も、あの空港で見かけた女性のように、出来るだけ天を望みながら、物事を考えまた話をするように心がけていきたいと思いました。

                    

 以下は、第17回児嶋虓一郎記念式での、理事長としての挨拶です。

 本日は、児嶋虓一郎記念式に御出席下さいまして、ありがとうございます。主催者を代表しまして、一言、御挨拶申し上げます。

 実は昨日(74日)宮崎市の石井記念こひつじ保育園に、石井記念友愛社後援会「石井十次の会」会員の方、それに石井記念友愛社に御縁のある方計13名の方々にお集まりいただき、色々と御助言や御意見をお聞きする時間を設けることができました。それより先613日には、「石井十次の会」宮崎地区幹事の男性4名がやはりこひつじ保育園に集まって下さいまして、私を含めて5名で話し合いをしております。この最初の会は、幹事のある方からの呼びかけで実現しております。今回の会はそれに9名の方に加わっていただき、こひつじ保育園の園長、主任、こひつじディサービスセンターの管理者も同席させていただきました。

 私は、『愛の心を今に』(宮崎日日新聞社発行)の中に収録されている、「石井記念福祉文化センターが完成」の記事を、コピーして出席者に配らせていただきました。石井記念こひつじ保育園は、もともと財団法人正幸会が経営する「乳児ホーム正幸園」として経営がなされていたのでありますが、平成3年より石井記念友愛社経営に移管させていただき、平成6年にディサービスセンターを併設する複合施設(名称 石井記念福祉文化センター)に全面改築。そのオープンの時の新聞記事が収められているのであります。

 「老人と子どもが日常的に交流できるのが特徴で、誰でも利用できる。」

 「三つの機能を持つ施設が同居する複合施設は九州でも珍しく、宮崎県内で は始めて。」

 「児嶋理事長は『福祉の中に文化をとりいれたかった。入所者とその家族に限るのではなく、誰もが利用して交流を深めて欲しい』と、語っている。」

 読み返しますと、先駆的試みとしてスタートした時の思いがまざまざと思い出されます。それから15年という年月が過ぎ去りましたが、保育園と老人施設との複合化はその後宮崎県内にも急速に普及しまして、今では特に珍しくはなくなって来ています。
 この15年で初期の目的を達することができたのか、否であります。保育園、ディサービスとも、それぞれの職員は精一杯与えられた仕事に取り組んで参りました。福祉施設としては、15年間立派に機能して来ましたし、利用者の方々からもそれなりの評価をいただいて参りました。しかし、あの地域の社会資源として地域の人々に活用していただけたかという観点から反省しますと、胸は張れないのであります。 職員は自分の仕事で精一杯で、とてもそこまでエネルギーを向ける余裕がないと言ってしまえばそれまでです。しかし、その次元にとどまっていたら、石井記念友愛社の事業としては不十分でしょう。ディサービスを利用されるお年寄りだけがお年寄りではない。地域の中に、氷りつくような孤立・孤独と戦っておられるお年寄りがおられるかもしれない。そういう方が気軽に遊びに来れるセンターにならなければならない。障害や年令の枠を越えて、この小ホールを活用して、様々なイベントや出会いの場を提供し、「友愛」の満ちた地域社会作りに貢献できるような流れを作っていかねばなりません。そうでなければ本物の福祉事業とは言えないと思います。
 ではどうしたらよいのか。私は、後援会やボランティアの方々との連携しかないと思っております。新しい地域社会作りは、その方法論を抜きにしては考えられない。今まで、私達をリードして下さっていた行政は、どんどん身を引き始めております。私達が今までどうり行政の出先機関に甘んじてしまっていては、本物のニーズは見えなくなっていくことでしょう。
 こひつじ保育園での今回の動きは、後援会の方からの発起であるところが非常にありがたい。おそらく今後、ボランティアの組織化と、石井十次の会宮崎支部結成と言う二つの大きな流れとしてまとまっていくのではないかと予感しておりますし、私もその流れに合わせて、自分なりの気持ちの整理と決意・決断を重ねていかねばならないだろうと予想しております。
 一方628日には、後援会「石井十次の会」都城支部の総会とセミナーも開かれ、後援会長さん、副会長さんと共に出席させていただきました。都城地区は薩摩文化のせいか、そのボランティア活動は熱くまた勢いのあるもので、特にその懇親会に参加すると熱気に圧倒されるばかりで、大きなエネルギーをいただくことになっております。都城地区の今後の大いなる発展が期待できます。

 本日は第17回の児嶋虓一郎記念式でありました。父虓一郎が亡くなり17年という年月が過ぎ去ったことになります。この十数年の間に、時代は大きく変化しております。それぞれ私達職員は、自分達に与えられている職場で、自分の足もとそして周辺の地域を見渡しながら、今の時代のニーズとは何なのか、それに答えるとはどういうことなのかを。絶えず考えなければならないと思います。ただ昔のように仕事を続けていくでは通用しない社会となっております。
 そして、自分達の力の及ばない部分については、色々な社会資源を活用しなければなりませんし、また先ほどの動きのように、色んな方々の知恵や支援を得ることを考えなければなりません。そのための戦略も考えなければなりません。
 石井記念友愛社の私達の到達目標は、「友愛の地域社会作り」であります。家族の再生、地域の再生を、それぞれが自分なりに頭の中で描きながら、目の前の問題・課題に取り組んでいく、そういう事業体でありたいと思います。この創立記念の日に、互いにそのことを再確認し合いながら、また明日から頑張っていきたいと思います。後援会関係の皆様、地域の皆様、今後とも厳しく御指導、御支援いただきますようによろしくお願い致します。

            


      ―2009年6月―

      希望
                   

 人が未来に希望を抱く時とはどういう出来事に遭遇した時なのでしょうか。失望に深い失望とちょっとした落胆程度の失望があるように、希望にも色々あるのでしょう。今回私は、人生に対する姿勢が変るほどの、不思議なくらい気の大きくなるような希望に直面することができました。

 延岡市の九州保健福祉大学を経営する学校法人高梁学園(本部岡山県高梁市)と石井記念友愛社との間に、「十次記念奨学制度」が設立されたのです。もう少し正確にいうならば、学校法人高梁学園と社会福祉法人石井記念友愛社と社会福祉法人みその児童福祉会(岡山市)、三法人の連携で、児童養護施設の子ども達に高梁学園の大学等への進学を支援する「十次記念奨学制度」が設立されたのです。522日、私は延岡の九州保健福祉大学での「連携協力協定書」調印式に臨み、震えそうになる手で、その文書にサインをしました。その後私は、「涙が出るほど嬉しい」と報道大学関係者の前でお礼を述べました。
 まだその内容については充分に煮つめてはありませんが、これから児童養護施設(現在では石井記念友愛社の経営する二施設とみその児童福祉会の経営する四施設のみが対象)から専門学校や大学に進学しようとする志の高い高校生が出た場合、学校法人高梁学園が、例えば入学金や学費の一部を免除したりして下さるのです。高梁学園は九州保健福祉大学だけではなく、高梁市には大学、短大、専門学校等も経営されていますので、福祉、医療系ですと選択枝の数もかなりあります。

 これは、児童養護施設の子ども達にとって画期的なことです。施設の子ども達に夢と希望と勇気を与えるすばらしい門戸開放ということになります。また、私達職員にとっても、指導に夢と希望を与えられることになるのです。今まででは、全く資金の準備ができませんので、いくら能力・資質の高い子どもがいても大学進学を働きかけることができず、その子どもが自分で判断するのを見守ることしかできませんでしたが、これからは、胸を張って「大学まで行け」と言うことができます。
 先ほど「気の大きくなるような希望」と書きましたが、調印後確かに気持ちの持ちようが随分違ってきています。昨年、大阪の看護大学に進んだ女の子がいました。入学してからの学費等については、大学と連携している病院が全額立て替えてくれるのですが、入学金30万円については本人自身が支払わねばなりません。合格通知が届いて何日までという期限つきです。出してくれることになっていた家庭もちの姉さんから「出せない」と間際になって返事があり、慌てて本人が大切に貯えて来た10万円を下ろし、それに施設からの20万円を足して何とか間に合わせました。この20万円については、子ども達が野菜作りをして稼いだお金を奨学金として取っておいたもので、税金の流用とは言えず問題ないと思っていました。ところが次の年の指導監査で、園のお金をこういう形で個人に出すべきではないと厳しく叱られています。他に園を卒園して4年生の大学に通っている者は3名おりますが、遺族年金が遺されていたり、親族が支援したりというようなことがなければ、現実的には進学は困難です。進学問題からは常に私達職員は逃げて来たと言ってもよいでしょう。

 15年ほど前までは、紡績会社等が働きながら短大や専門学校で学べる仕組みを会社内に作り、児童養護施設の子どもたちを温かく受け入れて下さっていました。もちろん園の卒園生だけでなく、地方の多くの子弟がお世話になったのです。現在石井記念友愛社の保育園等で働いている職員の中には、そのようにして働きながら学んだという職員が結構います。福祉の分野では、かつて勤労学生だったという人がかなり多いのではないでしょうか。一昔前まで劣悪な条件下で福祉現場が成り立っていたのは、彼らの頑張りがあったからだと言うこともできると思います。現在、介護福祉を目指す若者が急に減少して来ている状況を見ると、昔の勤労学生出身の職員がいかに大切な人材であったかということを再認識させられます。
 終身雇用もそうでしょうが、大家族的な助け合い・支え合いが日本の企業の伝統的文化として機能していて、その一つの形として働きながら学ぶシステムが確立されたのでしょう。ちなみに紡績会社の一つに「クラボウ」という会社がありました。二代目社長大原孫三郎氏は石井十次の親友ですが、あの当時の女工さん方の寮舎のシステムは、石井十次の小舎制から学んだものでした。
 ところが、我が国はこの10年ほどの間に様変りしてしまいました。若い人達を時間をかけて育てようというような余裕はなくなり、「派遣社員」に象徴されるように、単純な労働力の売り買いだけの人間関係が多くなって来ています。
 そういう時であるだけに、この度の「十次記念奨学制度」はありがたいのです。この話は、みその児童福祉会の理事長江草安彦先生から高梁学園理事長の加計美也子先生に、去年11月相談が持ちかけられるところから始まっています。加計理事長の特別のお計らいで石井記念友愛社までお仲間に入れていただき、九州保健福祉大学開学10周年記念の事業としてみごと成就したのです。これは個人的感情になりますが、九州保健福祉大学で学んでいた私の次男の死で落ち込んでいる私を奮起させるための、加計理事長の思いやりとも受け取れました。次男は卒業できないままこの世を去りましたので、近い将来、友愛園の子ども達の誰かがこの大学に進学し、そして無事に卒業してくれるのではないか。そうなることで、次男の仇を討つことになるのだと思ったりしております。

 今、アメリカナイズされた社会の中で、個人主義が浸透し、「格差社会」がどんどん進行していると言われます。児童福祉施設の子どもだけが進学に苦労しているわけではなく、一般家庭の子ども達の中にも、能力、学力、志がありながら、進学を断念しなければならない者が、今後どんどん増えていくだろうと予想できます。今回の奨学制度を、「よかったよかった」だけで終わらせたら、それこそ、我々も個人主義のレベルにとどまることになってしまいます。どのような家庭に生まれようとも、学ぶ権利は皆持っているわけで、児童養護施設の子どもたちだけが進路に関して優遇されるというようなことになってもいけないでしょう。
 時代が大きく変ろうとする時、その変革のエネルギーになるのはいつの時代も志の高い若者です。今、暖衣飽食の中でヌクヌクと育った若者に、そんなエネルギーを期待することはできません。私は、日本各地の経済的に追い詰めらた家庭の中で息を潜めて生活している子ども達の中に、未来のリーダーがいるのではないかと夢想しています。そういう埋もれた若者達に夢と希望と勇気、そして勉学のチャンスを与える何らかの新しい仕掛けが必要であるという思いを、この23年持ち続けています。

 これは、私の頭の中のイメージで終わるのかもしれませんが、一つの仕掛けをここに描いてみましょう。
 高鍋町の南九州大学が県南の都城市に移転します。今年度すでに1年生は都城キャンパスの方に入学しており、あと3年したら高鍋キャンパスは閉鎖されることになるようです。その空いた校舎を貸していただいて、専門学校を設立するのです。名前は「石井十次記念福祉専門学校」です。 そして、全国から苦学生を受け入れるのです。入学金なし。上の学校に進学する場合一番ネックになっているのが入学金です。入学してしまえば様々な奨学金がありますので、それを最大限に活用。お金の件はまだ不勉強ですし、その方面の法律がどうなっているのかも全くわかりませんので、これは私の勝手な構想です。2年課程を3年課程にして、学生の月々の学費関係の負担をできるだけ小額にします。そして、アルバイトをしやすくします。
 アルバイトは、西都児湯地区の病院や福祉施設と連携して、1人から数名ずつ受け入れていただき、朝・夕の一番忙しい時間帯に働いてもらう仕組みを作っていきます。将来、その職場に定着してくれれば一番良いわけですから、単なるアルバイト生としてではなく、実習生という自覚で働いてもらいますし、受け入れていただきます。毎月5万~6万程度得られれば奨学金と合わせれば生活できるのではないでしょうか。
 それらの学生の生活に合わせた授業カリキュラムも作ります。場合によっては夜授業をするということもありえるでしょう。学生のニーズに合わせて先生や職員にも働いてもらいます。昼間だけしか授業しないではダメです。
 次が重要なところですが、学生さん方は今まで南九大生がお世話になっていた下宿屋さんに引き続きお世話になります。下宿屋さんであると同時に「学生里親」さんにもなっていただきます。つまり、卒業するまで親代りとなって生活指導もしていただくのです。学校との何らかの協定が必要でしょう。学校と里親さんが協力し合って、未来の地域のリーダーを育てる、それくらいの自覚が必要です。お金のない学生さんには、今まで1人入っていた部屋に2人入っていただき、部屋代を半分以下にしていただきます。食事代は2倍に増えるわけですから、下宿屋さんにとってもそう損はしません。
 また、西都児湯地区の行政にも支援する体制を作ってもらいます。独自の奨学金を作ってもらい、卒業後何年間かその地区で働いたら免除してもらいます。今までは、人材を都会に奪われるばかりの歴史でしたが、これからは逆に都会から若者を奪う時代です。 最後に、南九州大学、九州保健福祉大学との連携です。専門学校を卒業してもまだ勉学を続けたいという優秀な学生がいたら、編入するしくみを準備するのです。

 以上が粗削りですが、私の頭の中に組み立てられている構想です。少子化で短大や専門学校が次々に閉鎖縮小されている時代に、何を夢みたいなことを言っているのかと笑われる方がほとんどでしょうが、学生達に寄り添った教育が行われなくなっている部分もあるのではないかという危惧を私は抱いているのです。、
 「他日有為の見込みあり乍併家政困難其志を達する克はざる者を助け一は之を他国に遊学せしめ一は之を吾村埓原朝夕学校に寄宿せしめ或は高鍋或は上江等の学校に入学せしめ」云々。
 これは、石井十次が明治17年高鍋に設立した『馬場原教育会』の趣旨の一部です。「其志を団結し各其分に従って所講一滴の水大海をなす」云々。そのような試みを地方においてすべき時代がまたやって来ているのではないかと考えています。

              

 
  
-2009年5月-

       ニャー子

 桜の季節が終り、我が家の玄関前の一本の樫(かし)の木が盛んに落葉するようになり、しばらく早朝の庭掃きが大変でした。落葉と言えば秋をイメージしますが、常緑広葉樹は春先がその更新の季節なのです。芽を吹くのは木々だけではなく、狭い庭一面に雑草達も芽を出し、これらの除草も毎朝の日課となります。ちょうど太陽もそれに合わせるかのように、早く顔を出し、
6時前後から、20分、30分庭の片隅に腰を下して、草一本一本を抜くことを毎日の楽しみとしました。草の中に一緒に芽を出しているメランポジウムやショウジョウ草などの花はできるだけ残します。ショウジョウ草は、最初高鍋町の石井記念にっしん保育園に生えていたものですが、もう我が家では、この数年雑草に負けずに、こぼれ種が毎年あちこちに芽を出し成長し、秋に中心部の葉を赤く染めて楽しませてくれます。ポインセチアに似た草花です。

 今年の異変が一つあります。サルビアが霜で枯れずに冬を越したことです。石垣やアスファルトの近くに生えているもので、その余熱で生き延びたのでしょう。この茶臼原でこんなことは初めてです。これも地球温暖化の影響だと思います。異変と言えば、これもその部類に入るかもしれません。何年か前に、カモミールが教会やあちこちに生えて来ていると、この「友愛通信」に書いたことがありますが、あれは間違いでした。葉が似ているだけで、背は伸びずに地をはうように広がり、花はほとんど目立ちません。おそらく、靴底や車のタイヤに種がくっついて広がっているのでしょう。我が家の玄関先や園内のあちこちで見られるようになって来ています。問題はトゲを持っていて、指先で引き抜こうとするとチクリと刺すことです。おそらく帰化植物でしょう、すごい勢いで繁茂し始めています。この除草作業にも時々感動と喜びが訪れます。庭の隅の方に野いちごが自生していて、真っ赤に熟れた実が突然に鮮やかに姿を現すのです。これらは、神からのご褒美としてすぐに口に入れるのですが、その甘さといい歯ざわりといい極上です。朝食前のすきっ腹に染み渡り、幸せな気分になります。マンゴーよりよほど野いちごの方がうまいと思うのですが。そんなことを言ったら貧乏人のひがみと言われれるよ、などとひとり言を言ったりして朝の一時を過ごしています。
   

 庭いじりも終りに近づいたある朝のことです。野いちごやツツジの茂みの中から、まっ黒の子ネコがひよっこりと姿を現わしたのです。我が家では残飯を裏庭に埋めており、それをねらってノラ猫が23匹常に来ていますので、驚きはしないのですが、この黒い子ネコとは一瞬目が合ってしまったのです。他のノラ猫であれば、サッと目をそらして、藪の中に逃げていきます。
ところが、この子ネコ、逃げようとせず、除草している私の周りをウロウロ。
私は思わず「にゃあお」と呼びかけてみました。

 するとどうでしょう。「ミヤーオ」と答えてくるではないですか。二、三度ネコ語を交わし合った後、私はそっと手を伸ばしてみました。まだ逃げません。アゴの下をなでると目を細めて気持ち良さそうにします。それからゆっくりと、両手で体全体をスキンシップ兼マッサージ。6ヶ月ほどの子ネコですがノラですので、おそらく生まれてこのかた人間からこんな愛情は受けたことはないはず。全身まっ黒で、目は金色。やせていて、シッポは、つけ根の近くで折れ曲がっています。おそらく他のノラ猫にかまれてたか、カラスに襲われたのでしょう。情が移るといけませんので、適当なところで止めて、私は家に上がります。しかし、次の日から、子ネコは私が庭の除草を始めると、どこからともなく姿を現わすようになりました。「ミャーオ」と甘い声を出しながら、体をこすりつけて来ます。愛撫を求めるジェスチャーです。そうされるとこっちも悪い気はしませんので、なでたりさすったりすることになります。私達の信頼関係を確立するための媒介となったものが食べ物です。4月末に園の子ども達と一緒に田植えをした際、体が汚れていますので、私は我が家の縁側で昼食を取ったのです。ツツジの根元から出てきた子ネコは、当然近寄って来てねだります。私は迷いましたがハシで何回か分けてあげました。わたしのヒザの飛び上がり、直接茶碗に手を突っ込んで食べようとするような勢いです。見た目は上品な子ネコでしたが、食い意地は張っているようです。しかし、考えてみればノラとして約半年くらい生きてきたわけですから、それは仕方ないことなのでしょう。この近くで残飯がある場所は、友愛園の牛舎の堆肥小屋か、我が家の裏庭かのどちらかです。園の堆肥小屋には、毎日、子ども達の食べ残しを当番の子どもがバケツにいれて捨てに行きます。量から言えば我が家よりずっと多いのですが、他のノラ猫やカラスもよく集まって来るし、競争が激しくておこぼれにあずかれない時もあるでしょう。我が家の方は、土の中に埋まっていますので、掘り出す間に土とまじってしまって、満足に食べれるものはないでしょう。よくぞそういう環境の中で生き抜いて来れたものだと思います。食い意地が張っているなんて言い方は、飽食になれてしまっている人間の思い上がりなのかもしれません。

  

 それから1週間もしないうちに、その黒の子ネコは、我が家の家族の一員として家の中で一緒に生活することになりました。妻が動物病院へ連れて行き、次女が首に首輪をつけてあげ、今、もう何年も前から我が家に住んでいるかのような表情で、家のなかを闊歩しています。朝、私が台所の食卓の前に腰かけて新聞を広げると、私のヒザの上に乗っかり、丸くなって眠ってみたり、毛づくろいをしてみたりかわいいものです。猫と人間が共生し合うようになって何千年になるのか知りませんが、生まれた時から人間に愛されなくてもこうして関係ができるというのは、DNAの中に、友愛の心が組み込まれているからなのでしょうか。

 以下は、私と子ネコとの会話です。

 「60歳の誕生日をお祝いして、天国からのプレゼントじゃないかなという気がするのだよ。次男の生まれ代わりとは思いたくないから、多分、次男からの贈りものだろうと受け取ることにしたのさ。」

 「御主人様と出会った日は、私も孤独に耐え切れなくなってちょっと感傷的になっていたし、御主人様も一人で庭にしゃがみこんでいて淋しそうだったし、一瞬目があった時、ああこの人は私を受け入れてくれるなと感じたの。」

 「お前はどこで生まれたの?よく残飯だけで今まで生きてきたね。」

 「私が生まれたのは、園の牛舎の2階のワラの中。母は私と同じ黒で、私には最初は3匹兄弟がいたんだけれど、一匹は病気で亡くなり、もう一匹は、カラスにさらわれていったの。私も堆肥小屋の残飯を食べている時、突然カラスにつれていかれそうになったけど、母が必死に守ってくれたの。私のシッポの曲がりは、その時の傷跡。弱肉強食の世界で生きていくのは本当に大変。カラスには何度も食べられそうになったし、ノラ犬も恐かった。とは言っても、私もスズメや野ネズミなど随分食べさせてもらったけどー。」

 「母猫の姿も時々見るけど、どうして別れてしまったのかい?」

 「私達の世界では、私が自分でネズミなど取れるようになった時が自立の時なの。母は大変やさしかったけど、14日ほど前急に態度を変えて、私から去っていったわ。静養館の床下で母と一緒に、御主人様が見学者達にお話をしているのを聞いたことがあるけど、まさにあの『獅子が千尋(せんじん)の谷に我が子を突き落とす』話は、私達の世界では現実問題ね。誰もいない時、そっと静養館にしのび込んで御主人様が説明をしていた藤島武二の大きな絵を見上げてみたけど、自分がまさかそうなるとは思わなかった。1ヶ月間必死になって野ネズミを取ったり残飯あさりをしながら生きてきたわ。生きるって大変だ。あの日は、家の裏の残飯食べに来て、親猫たちがさんざんかき回した残り、もう半分くらいは土がまじっていたけど、構わず腹の中につめこんで、ホッとしている時でもあった。それこそ運命の出会いというヤツね。」

「さっきの『獅子』の話だけど生んですぐ崖から突き落とすのではないというところが重要なんだ。お前も自立するまでは、お母さんから充分に愛されたようだし。お恥ずかしい話だけど、同じ動物である人間の世界では、自立の意味が混乱してしまっていて、自立に失敗している若者が大勢いるんだ。」

 「自立に失敗するという意味がよくわからないんですけど。万物の霊長である人間の世界でなぜそんなことがおきるんですか。友愛園の子ども達を見ていると、みんなそれぞれに人間として立派に成長しているようにみえるけど。」

 「友愛園の子ども達は、みんな自立に向けてがんばっているさ。お前のお母さんが一所懸命にお前に狩りの仕方を教えたように、職員達が一緒に生活しながら、将来の仕事の基礎になる手伝い・掃除の仕方や農作業の仕方等について教えている。ところが、人間世界には色んな考え方の人がいて、我が子に自立のための訓練を全くしない家庭もある。また逆に、しつけと称して、まだたっぷり愛情を注いであげねばならない時期に虐待を加え続けている親もいる。人間世界が長い時間をかけて築き上げて来た子育て文化というようなものが大きく崩れてきているのさ……。」

 早朝、まだ他の家族がみんな夢の世界をさまよっている頃、私とミャー子は、秘かに会話を楽しんでいます。否、そんな気分になって、互いに見詰め合ったりしています。さあ、暑い夏がやって来ます。気合を入れなおして、仕事に励みたいと思います。
 


      -2009年4月-
    
       常徳作「石井十次」

 芸術とは一体何なのだろう。そんな原初的な問いかけの前に、今立たされています。それはなぜか心地よく、「なぜ気持ちよいの?」とさらに自らに問うても答えは出て来ないのですが、おそらく、自分の中の眠る感性の一部を自覚めさせられているからなのだろうと、勝手に想像したりしています。

 画家の増田常徳氏が、石井十次の肖像画を描いて下さり、私は、その絵の前で心の奥底から湧き起こる感動をおぼえ、やがてそれは、勇気と希望へと除々に変質していきました。まるで、白色だったポピーの花が数時間後にピンク色に変化するようにです。否、別の表現をするならば、暗くてザラザラだった心の世界に、どこからかほのかな明かりがさしこんで来たかのようにです。

 高鍋町立美術館で開館10周年を記念する「増田常徳展」が327日から始まっています(56日まで)が、私は、2日前の25日午後3時すぎ、美術館を訪れ、展示準備中の増田常徳氏にお会いすることができました。この日は、27日午後のパネルディスカッションの打ち合わせも兼ねていたのです。一回り作品を見せていただいた後、増田氏は、私にだけ特別にその石井十次像を見せて下さいました。この作品は、石井記念友愛社内の旧教会に約1週間展示された後、石井記念友愛社に寄贈して下さることになっています。28日午前中の除幕式までは非公開の予定だったようです。

 梱包(こんぽう)を解かれて現れた絵は、衝撃的でした。生きた石井十次がそこにいる、そんな生ま生ましさが私に迫って来ます。その肌に血の気を感じ、特に目は私の心を見透かすように凝視しており、エネルギーを内包しています。30代と思われる100年以上前の肖像写真を送ったのですが、今まで見たどの肖像写真(画)よりも、品格と力を感じさせる石井十次です。祖父の児島虎次郎も十次の肖像画を描いていますが、亡くなる1年前(大正2年)であり、すでに燃え尽きて、死を予感させる絵であり、この絵とは対象的と言えます。
                                       

 常徳氏の石井十次像は、右手で杉の苗を胸に抱くように持っていました。そして、常徳氏は、「これは森次郎君です」と言って下さったのです。私はもう言葉を失い、じっと見つめるしかありませんでした。胸がいっぱいになり様々なイメージがあたたかく広がっていきましたー。

 常徳氏との御縁は、昨年の夏に始まります。高鍋町美術館の田中隆吉館長、画家の大上敏男氏、佐々木画廊の佐々木啓吉氏に案内されて、石井十次資料館を見学に来られた時です。高鍋町美術館の10周年記念事業として、増田常徳展を企画され、その下見に来られたようでした。お恥ずかしながら、私は増田常徳という画家を知りませんでしたし、いつものお客に接するような姿勢で説明させていただきました。田中館長の案内の様子から見て、かなりの実力の持ち主なのだろうくらいは察することができましたが、今回のような“導き”が隠されているとは予想もしませんでした。常徳氏は、その時の視察で、すっかり石井十次に魅了されたようでして、美術展はすぐに決まり、私あてにも、丁寧なお手紙をいただきました。

 「石井記念友愛園を訪問し草次郎様にご説明を頂ながら、感慨深い思いに浸るとともに、人間の果たす役割を目の当たりに思い知らされ、その衝撃に身が震えるほどでございました。高鍋での展覧会の意義とコンセプトはここにあると直感するに至ったのです。」
 そして、氏は、氏の後援会「西風の会」の名前で、「石井十次の会」にも入会してくださったのです。人間は偉くなると、自分中心に回りが動きますので、次第に気配りを失っていき、感性も鈍化していくものですか、常徳氏のこの反応に、私自身が感動させられ、その人間性に興味は持ちました。しかし、その後、田中館長から頂いた資料の中の画の写真はどれも暗く重く(大袈裟に言うならば地獄絵のごとく)、どちらかと言うとあまり近づきたくない世界のようにも感じていました。
 私は、職業がら、子ども達に対し常に「プラス思考で物事を考えよ、感謝の気持ちを持て」などと話しますし、自分自身もそういう姿勢で生きるように努力しています。友愛園に来る子ども達が背負わされている荷物は重く、親や世間を恨むような後向きの姿勢では、特に社会に出てから壁を乗り越えていけないからです。社会は人間関係で成り立っており、どれだけ自分を信じてくれる人を確保できるかで道は決まっていくのです。私自身の感性としてはカフカやドフトエフスキーを愛する青年でしたので、内向きなのでしょうが、この仕事についてからは脱皮したつもりですし、「暗い世界」にはできるだけ近づかないようにしているのです。

 その後、時がすぎ年が明け、111日、息子森次郎の突然の死を迎えることになります。田中館長から常徳氏にその情報が伝わり、2月の「友愛通信」を読まれた常徳氏から更に心のこもったお手紙が届きます。
 「ゆうあい通信を拝読させていただき、事故の凄まじさと、残された者の打ち拉がれた思いがひしひしと伝わって参りました。」
「私は絵描きですので、森次郎様の肖像画を描かせていただき、児嶋草次郎様、ご家族様、関係者の皆様、そして自然界の全て森羅万象の慈悲へと繋がることを、此のたびの御縁と考えております。」

 常徳氏の御活躍に比べたら、私などの田舎の雰細法人の一園長にすぎないのに、なぜここまで、誠実に細やかに心を向けて下さるのか。息子の肖像画を描いて下さるとは、私にとっては最高の励ましとなるのかもしれません。しかし、私はお断りし、代わりに、「石井十次」を描いて欲しいとずうずうしくお願いしてみました。私は、228日発信の手紙に、次のように書かせていただいています。

 「石井十次と一緒に働いていた職員、そして当時の子ども達は、ここに一つの理想郷を作ろうとしました。今から約100年前です。しかし、現実は非常に厳しいものでして、十次はその実現した姿を見ないままに、この世を去っていきました。一緒に夢を追った職員達もその後次々に世を去り、子ども達もやがて大人になりそれぞれに散っていきました。
 時がたち、今、私達は新しい理想郷作りに挑戦しようとしています。それは、“障害者と共に作る工芸村”であります。私は石井十次の末裔ですが、私だけではあなく、この地域に独立された石井十次から学んだ人達の末裔の方々の中にも賛同者がなられて、一緒に新しい夢を追おうとして下さっています。100年という年月を越えて、夢を追い続けるというのは、美しい話だと思いませんか。」
 「息子もその群の中の一人であったと思っていただけたらいいと思います。そういうことですから、肖像画の方も息子ではなく、石井十次や石井十次に続く人々を描いていただければありがたいです。」
 その手紙には、石井十次の肖像写真以外に、常徳氏のイメージを作る手助けになるような写真数枚を同封させていただきました。
 今思えば「息子の死」という暗い世界に埋没しそうになっている自分から逃れて、今取り組んでいる新たな仕事に向けて自らを鼓舞する何か力となるもの、支えとなるものを求めていたのかもしれません。
 常徳氏からすぐに返事が届き、次のように記されてありました。

 「森次郎君が父草次郎様と私に石井十次の肖像画を描くべく、懸け橋を架けてくださったのではと感じております。石井記念友愛園の理想郷作りの一隅のお役に立てることを、ありがたく進めてみたいと思います。」
 そのお手紙の日付が34日ですから、それから20日足らずで、石井十次の肖像画は描かれたことになります。その技倆(才能)は驚くばかりですが、私は更に、常徳氏の人間性に一層の感動を覚え、その人生に強く関心を抱くようになりました。

   

 増田常徳氏は、昭和23年生まれで、私と同じ団塊の世代です。長崎県の五島列島の出身。中学生時代は美術部に在籍し、西日本スケッチ大会で金賞を受賞するなど早くから才能を発揮し、高卒後は美大進学を志望しますが、家業の建設会社を継ぐために断念。すぐにその建設会社も倒産し、男兄弟で神戸の建設現場に出稼ぎに出ます。1969年(20歳)頃だそうです。私が一浪の後に大学に入学した年ですし、世の多くの大学が70年安保戦争で荒れ狂っていた頃です。あの当時、ヘルメットをかぶって街で暴れていた学生達を、常徳氏はどのような思いで見つめていたのでしょう。私は、毒虫のように部屋に閉じこもって、小説ばかり読んでいました。
 氏は、働きながらも画家への夢を捨てず美術研究所等へも通いながら、独学で力をつけていきます。結婚は26歳と資料には書いてありました。327日午後のパネルディスカッションの時、私は氏に、「支えているものは何ですか」と質問してみましたら、「コンプレックス」と答えられました。おそらく、氏のこのコンプレックスを支えた人が奥様なのだろうと思います。初期の頃美しい裸体画を多く描いておられますが、モデルは奥様のように感じます。その後、83年、昭和会展林武覚、上野の森美術館絵画大賞展佳作賞、89,安田火災美術財団奨励賞展新作優秀賞など数々の賞を受賞し、画家としての地位を確立。

 しかし、次第に売れる癒し系の絵を描くことに疑問を抱くようになり、関心は次第に現代史の負の部分へ向かうようになっていきます。ここが常徳氏の誠実さなのでしょう。そして特に2005年ドイツに留学してからその画風は暗く重くなっていったようです。
 今回の美術展に際し宮崎日日新聞の記者に対して、常徳氏は次のように答えています。
「日本は漆や墨のように透明で神聖な黒の文化。ドイツではペスト(黒死病)のように黒は悪魔の象徴。私は両者の精神文化を合体させようと模索した。」
 「昼と夜はどちらが価値があると思いますか。生産性から言えば『昼』と答える人が圧倒的かもしれないが、実は両者の価値は全く同じ。」

 私は、この記事を読んで随分楽になりましたし安心もしました。先ほど失礼な表現をしましたが、日本には、神聖な黒の文化があったと思いなおすならば、また違った見方もできるのかもしれないからです。そういう思いで常徳氏の作品群を見直し、私なりのとらえ方をすることができるようになりました。これは、ノートにメモしたものですが、そのまま書き写しておきます。
 「黒の世界の美しさを追求している。その美しさというのは、人間の本能の欲求(例えば性的なもの)に答える次元の美しさの域を越えた世界のもの。欲をできるだけそぎ落として、そこに存在することそのものが美しい、そんな世界を求めているのではないか。
 やがて彼は、禅寺や茶室の土壁に飾るにふさわしい絵を描くようになるのではないか。すでに光明のない世界に開花するハスの花の絵「白酔郭」(2006)などは、その世界の絵だと思う。
もしかしたら裸婦をもそういう世界に描こうと試みているのかもしれない。例えば、制作時には、エロチックだった仏像が何百年という年月で次第に風化し、その仏像に付着していた人間の様々の欲望も気化してしまい、自然と同化し、人間世界から解放された一つの自然物として美を放つ。そんな存在として対象物を描こうとしているのではないか。それは、何百年という長い時の移ろいを一瞬に凝結する世界。」

 藤島武二の「ライオン教育」の絵が、明治36年に大原孫三郎から石井十次に寄贈されて以来100年以上に渡って、多くの若者の自立を激励して来たように、今回描いていただいた石井十次像は、これから多くの職員や関係者、否、もっと多くの人々を支え励ましていくことでしょう。胸に抱く杉の苗木は、私の息子という次元を越えて、現代に生まれる子ども達すべてをさしているようにも感じれるし、もっと大きく、森に木を植えて、地球を救えと石井十次が訴えているようにも取れます。

 見る人に対して様々のメッセージを準備している肖像画であると思います。

                         
         

増田常徳様、ありがとうございました。旧教会での鎮魂と感謝の会に御参加下さいました「西風の会」の皆様、ありがとうございました。また、すばらしい演奏をプレゼントして下さいましたギタリストの佐藤達男様、ピアニストの平沢匡朗様、ありがとうございました。そして、常徳様を導いて下さった天に感謝です。

                         


       ―2009年3月―

          

 まるですでに菜種梅雨に入ったかのような雨が、この2週間ほど、断続的に続いています。そのような天候の中で、我が家の山桜が盛りをすぎてもう散り始めています。木の下に立つと、かすかな甘い香りに包まれ、その香りに多くのミツバチが集まってきています。散る花びらをボーと見上げながら、魂の故郷へ時々思いを走らせます一。
今年は、この広い友愛社の敷地内に、花桃の苗木10数本を植えました。宮崎神宮の植木市で、出張の帰りに買って来たものです。梅の花が咲いた後、山桜が咲くまでの期間、殺風景な庭に何か彩を添えるような花木はないものかと考えた末に、昨年あたりから花桃の苗木を園庭のあちこちに植え始めています。若い頃は、果実のならない花桃を軽く見ていたのですが、歳を取ってくると、逆に花そのものから癒されることの方が多くなってきています。
 山桜を精神的な世界の花だとするならば、桃の花は、寒い日が続いて萎縮している気持ちを前向きに開かせて元気をくれる、少女達の笑顔のような花とでも表現することができるかもしれません。「皆さん、春ですよ!元気を出しましょう。」
と目を覚まさせてくれる花です。

                     

 さて、話は変りますが、建設中でありました「茶臼原自然芸術館」(障害者就労支援B型事業)と、「天命館」(共同生活介護・共同生活援助事業)は、ともに完成し、現在、認可(指定)申請中であります。職員も1月から1名採用し、文書作りや利用者開拓にともにかけずり回っていま
 私は、障害者福祉に取り組むのは今回初めてですが、様々な問題に直面し、とまどいながら、これからの歩みについて考えさせられています。まだ見えてない部分も多いのかもしれませんが、障害者福祉の難しさの前に立たされています。
 これは、様々な関係機関や一部の障害者の方々、御家族の方々に接しながら抱く私の感想です。

① 障害者の方々が地域で案心して暮らせる社会の実現を目指して作られた障害者自立支援法が施行されたのが、平成18年です。身体、知的、精神の3障害を一元化すること、利用者本位のサービス体系に再編すること、就労支援の抜本的強化をすること等をポイントとする改革がおし進められることになったのです。ノーマライゼーションの一層の具現化とも言ってよい大改革です。国はこの法律による新体系への移行の期限を平成23年度までとし、その着実な定着を図るために特別の基金を作り、円滑施行へ特別対策事業なるものが都道府県において平成20年度まで実施されたと言う経緯もあります。

 私は、当然、どこへの施設も積極的に新しい体系へ向けて走っていると予想していました。ところがこの度その世界に足を踏み入れてみると、国や県が旗をふっているほど現場は動いていないというのが実感です。平成204月現在で約3割ほどしか新体制へ移行していないということも聞きます。移行すると経営が厳しくなるというのが主な理由のようですが、中には政権が変われば、また施設にとって有利な流れとなるという期待もあるようでして、「様子見」というのが現状のようです。その結果、どうなるのか。軽度の障害者を抱え込んだままで、表面的には、さほど障害者の各地域への動きは見られないということになります。平成23年度までこのまま流れていって、一挙に放り出されるということになるのでしょうか。県央地区に子どもさんを預けておられるある方は、新体系の知識を全然持っておられませんでした。また、そういう話を園側に持ち出すことについても、子どもを人質に取られているような気持ちがしているのでと躊躇されていました。

② 私は、昨年の12月頃から、今年に入ってからはサービス管理責任者になる予定の新採用の職員と一緒に、西都市、木城町、高鍋町、新富町、川南町、都農町の一市五町を初め、関係機関を繰返し訪ねて、資料等を配布しながら、障害者との御縁作りに努めて来ました。「茶臼原芸術館」の理念・方針や支援内容をできるだけ多くの障害者の方々に知っていただき、利用の際の選択技の一つに加えていただかねばなりません。

 ところが、これもフタを開けてみて愕然とすることですが、情報が流れていかない現実に直面させられているのです。行政機関には、申請保護の原則というのがあるからでしょう。地域で苦しんでおられる障害者を抱える家族を掘り起こし、利用施設につなぐということはしないようなのです。個人情報保護のため、そういうケースを紹介するということもしません。ですから、障害者を抱えるご家族がよほど強く役所に自立支援を求めて訴えるという動きがない限り、利用施設との縁はできていかないということになります。

 ○男さんは母子家庭。お母さん(60代)は、民生委員のAさんの家で農業手伝いをしながら生計を立てておられます。民生委員のAさんもお母さんも、○男さんの今後について心配されておられました。今回Aさんの紹介でお話を聞くことができたのですが、○男さんは、障害年金は、受けてはいるものの療育手帳は持っていないという方でした。民間会社に就労した経験はあるのですが長続きせず、現在は無職。年金が入れば自転車で町に出て行ってブラブラするということを繰返して来られたようです。まだ指定も受けてない友愛社の職員が、○男さんの療育手帳の申請に走り回るという結果になっています。本来これは、誰の責任だったのでしょうか。

 こういう方々にまで私達の情報が流れていくというのは非常に難しいことであると実感しています。今回、民生委員のAさんの紹介がなければ、○男さんはこれからも地域の中で放置されたままの状態を続けていたのでしょう。お母さんにも○男さんにも今回施設(茶臼原自然芸術館)を見学していただき、特にお母さんには、喜んでいただけました。4月を楽しみに待っていただいています。

 他にも似たケースはあり、結構こういう方が地域の中に埋もれておられるのではないかという気がするのです。自立支援を受ける権利を持っていながら新しい法律の知識もそれを訴える知恵も方法も有しておられないのです。
 養護学校高等部を卒業して10年以上家の農業を手伝っておられるという女性もおられました。その方のお父さんが行く末を心配され本人を連れて訪ねて来られたのですが、残念ながら他の御家族の理解が得られず、施設利用の話は途中で挫折してしまいました。内と外との偏見とたたかっておられるのだと感じました。この女性は、障害年金さえ受給されていませんでした。両親が年々高齢化していく中で、この女性の将来は誰が保障するのでしょうか。地域には障害者支援のコーディネーターの方が配置されていますが、表面的に錯綜している障害者の問題に振り回され、とてもこのような口を開かない障害者を掘り起こすというところまでの余力は残されてないでしょう。今のような状況の中で障害者自立支援法の理念が、果たしてすべての障害者に浸透するのか、そんな疑問さえ湧いて来ます。

③ 関係機関の連携(横のつながり、縦のつながり)も充分でないと感じます。西都市うからの里の樋口和徳先生と清水台通所センターの松下恵子先生には、色んな面で大変お世話になっています。うからの里に10年以上勤務した職員を友愛社に採用することについてお許しいただきましたし、書類作り等においても両先生に常に助けていただいています。

 一市五町には、もうすでにそれぞれに就労支援の施設ができています。木城町が一番遅れてスタートです。この地域は車で片道30分の圏内ですので、将来は各施設がそれぞれの独自性を発揮し、障害者は、それぞれの能力に合わせて選択ができるようになっていかねばならいのでしょう。ところが現実は、障害者の奪い合いみたいになっているというのが実情であると気付かされています。

 不思議な感じがするのですが、「障害者の自立支援!」と国や県は一所懸命旗は振っているのに、各市町村レベルで具体的にどのような関係機関の連携がおこなわれているのか全く見えてこないのです。すべてが各事業所の個人プレイに任され、県や市町村は距離を置いて傍観しながら監視している、そんなイメージ図が浮び上がって来ます。こういうスタンスになったのは、高齢者福祉において、株式会社やNPOが参入し始めてからでしょうか。県も市町村も事業所も一体になって取り組んでいるという姿が、どこにも見れないのです。

 以上のような環境の中で、茶臼原自然芸術館(定員20名)、天命館(定員6)の定員を満たしてスタートすることは厳しい見通しです。そういう状況で認可(指定)がいただけるのかは、県当局の判断にまかせる他ないのですが、私は、障害者福祉の難しさを今、ようやく認識できむしろ感謝してきます
 「自立支援」などと軽々しく言いますが、一つ一つのケースが他人には見えない様々な問題を抱えていて、それらを解きほぐしていくのに、かなりのエネルギーと時間を必要とするということを、まず教えられているように感じます。
 障害者の方々や地域の人々にとってなくてはならない福祉施設として機能できるようになるまでには、おそらく23年という時間を必要とするのでしょう。まず地域に埋もれているケースを一つ一つ掘り起こしていくこと、そして、信頼関係を築きながら、私達の理念や方針や支援の内容を理解してもらうこと、そういう地道な活動があって初めてこの事業はスタートし生きたものとなっていく、そのように考えています。私達は新参者ですが、未来をしっかり見つめて、あせらず一歩一歩障害とともに地域社会作りをめざしていきたいと思います。皆様の更なる御指導、御支援、よろしくお願い致します。


      ―2009年1月― 
      生き抜く力

 新年あけましておめでとうございます。

 今年は、いよいよ障がい者とともに、新たな理想郷作りに向かって歩み始める第一歩の年になります。皆様の御指導・御支援、よろしくお願い致します。

 患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す

 以下の文は、1225日クリスマス会の時に、友愛園の子ども達に話したものです。

 クリスマスおめでとうございます。2008年も残り数日となりました。この一年を振り返りますと、友愛園でも先ほど館長のツバサ君が一年の反省を読みましたように、色んな行事、出来事がありました。そして、今日、こうしてクリスマス会を平和に迎えられています。
 昨夜、三友館のみんなは、石井十次先生のお墓に参拝しました。みんなは、一年に何回石井十次先生のことを思ったり感謝したりしていますか。昨夜一晩だけだったらもったいない。石井十次先生の写真は、この食堂に掲げてあるので、どういう人であったのかはなんとなくイメージできる。
 しかし、石井十次先生の後ろの方というか上の方におられる神様については、写真もないし、会ったことも見たこともないからイメージできません。イメージできないものを信じろと言われてもなかなか難しい。だから、こう考えればよい。石井十次先生は、そして石井十次先生と一緒に働いた職員や当時の子ども達は、神様に守られていた。神様に守られてなかったら、あんなに多くの人達(一番多い時には子ども達が1200人、そして職員が100人くらい、同じ施設の中で、お金も満足にないのに生きていた。西都市の奥の方に西米良村という村がありますけど、同じくらいの人数です)が、餓死者も出さずに生きれるはずない。石井十次先生という人は、神様に守られていた人である。

 その石井十次先生のお墓にお参りするということ、そこで一年を反省したり、来年への決意を述べるということは、その上の方におられる神様に挨拶するということでもある。だから、昨夜参拝した三友館のみんなは、神様の前に立ったということでもあるのです。もしかしたら、みんなの遠いご先祖様も亡くなった肉親も、神様と一緒に見下ろしておられたのかもしれない。

 みんなも、昨夜はあの場で素直な気持ちになれたのではありませんか。私はそう感じました。 なぜこんな話をするかと言うと、私もそうだけど、みんなは、それぞれに『守られているな』と、このごろ度々感じられてならないからです。誰かがみんな一人ひとりを守って下さっている。グチや不満の多い者もいる。事件を起していろいろと親や学校の先生方に心配や迷惑をかけた者もいる。しかし、一年が経ってみると、こうして一人残らずクリスマス会に参加して楽しんで、この後にはごちそうがお腹いっぱい食べられる。そう思いませんか。ありがたいと思わねばなりません。
 守って下さる方は、神様だけではありません。毎日ここで生活していくためのお金を出して下さっている方々。それから見えないところで、あるいは日常的に助けて下さっている多くの支援者の方々。そしていろいろ指導して下さっている児童相談所や学校等の先生方等。そういう方々にも感謝しなければなりません。親と離れて生活しているということは淋しいことなんだけれども、生きているということについては、自分は守られている、そのように考えてみてほしいと思います。

                       

 ところで、話は変りますが、一つの新聞記事を読みます。(朝日新聞1211日付 一部省略)

『 フクヤマさん(33才)
 福岡市に雪が舞った5日夜、博多区の冷泉公園で支援団体が炊き出しをした。紙コップ一杯の豚汁とおにぎり、バナナ一本を求め、100人を超えるホームレスが並んだ。中にはまだ若い男性の姿もあった。
 福岡市で生まれた。高校でいじめにあい、一年で中退。両親が経営していたコンビニエンスストアで働いた。26歳の時に父が交通事故で亡くなり、その3年後には心労で肝臓を悪くした母も逝った。このころから派遣社員として仕事を転々とした。
 福岡県のパン製造工場から大分県の日産下請けの自動車部品工場へ。さらに「給料が良い」と誘われ、愛知県のトヨタの下請けに移った。
 担当はトランスミッションの部品作り。単純作業を一日12時間、週5日続ける。寮にはテレビ、冷蔵庫、エアコンがあり、3食付き。寮費などを天引きされても月給は15万残った。
 7ヶ月働き9月に契約が切れた。待遇に不満はなかったが、福岡が恋しくなり帰ることにした。「違う派遣の仕事を見つければいい」。しかし、不況風が吹き始めていた。仕事が見つからず、愛知県の会社に再契約を求めたが断られた。

 母方の親類宅に一ヶ月居候した後は、カプセルホテルを転々としながら、職探し続けた。派遣時代にためた18万円の貯金は一ヶ月で千円を切り、路上生活が始まった。所持金は300円になった。今は市内各地の炊き出しを巡り、11食でしのぐ。食べられない日もある。
 「気づいたら、家も仕事もなかった。仕事につくのがこんなに難しいとは思わなかった」。夜は吹きさらしの駐車場で、段ボールにくるまって過ごす。寒さが厳しい夜は、眠ることすらできない。 』

 フクヤマさんは、今、福岡市内のどこかで、ほとんどお金もないまま段ボールにくるまって生活しているのです。こういう人達が、現実に日本の大都市の中で大勢、震えながら生活されている
 9月にアメリカの証券会社が破綻してから、金融を中心とする大会社が次々に経営危機に陥り、当然日本の輸出関連企業も直撃を受けて売れなくなってしまいました。商品が売れないまま放っておいたら会社は倒産してしまいますので、働く人達(従業員)を減らし始めます。あの世界のトヨタは、4000人以上の人の首を切るそうです。大分にはキャノンという会社がありますが、1000人以上整理されるそうです。宮崎県内でも国富町に日立の会社がありますが、正社員1000人のうち約4割を本年度中に県外の工場に移し、派遣社員役250人は来年1月までに削減されるそうです。削減というのは首を切られるということです。木城にも宮崎ダイシンキャノンという会社があり、750人ほどが働いておられるということですが、今のところは大丈夫としても、これ以上景気が悪くなったらどうなるかわからない。
 首を切られる多くの人達は、“派遣社員”と呼ばれる人達です。これは、例えばトヨタが直接雇うわけではなく、別に派遣会社が雇っていたものを、トヨタと派遣会社との契約により送りこまれる、つまり派遣されるシステムになっています。大会社にとっては都合がよく、景気が悪くなったら、派遣会社に「引きあげて下さい」というだけでよい。働く人の身になって作られたしくみではない。

                     

 今朝の読売新聞を見たら、今年10月から来年の3月までに職を失ったか失う予定の人は、3万人超(1227日には85000人と報道)と書いてありました。大変なことです。これから、日本は世界不況の波に飲み込まれていき、どんどん景気が悪くなっていくのかもしれない。

 今、みんなは、この話をどのような気持ちで聞いていましたか。これは他人事ではないのですよ。みんなは、今ここでヌクヌクと毎日生活できているけど、一年一年成長して、18歳高校を卒業したら、ここを出ていかなければなりません。ぼくは社会に出るのは嫌だからずっとここにいさせて下さいと言っても、それはダメです。許されない。友愛園でニートになるわけにはいかない。
 だとするならば、こういう厳しい社会に出ても、生き抜いていける力をここにいる間に身につけておかねばならない。生き抜いていく力を持つ人間とはどういう人間なのか。

    基本的生活習慣の確立できた人間。自分の身の回りがキチンと片付けられ、人間関係において礼儀や挨拶がキチンとできる人間。

    積極的に働ける人間。人間は働いて生きる動物ですから、働くことが苦にならないようになっておかねばなりません。友愛園の労作(作業)は、みんなにとっては大変な財産になります。ここでの修行が誇りになるようにならなければなりません。

    心の問題。私から言わせると、みんなの中には、人間不信、親不信が多い。そういう人は当然、常にマイナス思考になってしまう。それではここでは生活できても社会の中では生きてはいけない。いつも言うけどプラス思考と感謝の心を持つこと。そういう思考ができるように、ここにいるうちに最大限の努力をしていくこと。それから、自己コントロール力を身につけること。今の日本の社会は欲望追求社会です。人間の本能を喜ばせてくれるような物や人が社会の中には満ち溢れている。自己コントロール力を身につけておかないと、社会に出たら、すぐにそういう誘惑に飲み込まれてしまい、自分のすべてを失ってしまいます。

厳しいことを言いましたが、特に中学生、高校生はしっかり自覚して下さい。今年残された日は1週間ほどしかありません。この一年をじっくり反省して、来年は飛躍の年にして下さい。




        ―2008年8月―

        米寿のお祝い

 残暑御見舞い申し上げます。7月は雨が少なく猛暑が続いて、大地がカラカラに乾いていましたが、8月に入り、梅雨に戻ったかのように、スコールのような雨が時々襲ってくるようになりました。畑のナス、ピーマンや園舎周辺の花々も元気を取りもどしています。

 さて、今回は、私の母(登美)のことを書いておきたいと思います。この89日に、母の兄弟の叔父、叔母等の親族に集まっていただき、ささやかながら母の米寿のお祝いをすることができました。岡山より塊太郎兄夫婦、兄の長女夫婦とその子、そして我が子4人も帰って来てくれました。
 この公的な通信で、私の母のことを書くと、公私混同と言われそうですが、敗戦直後の昭和2010月より、石井記念友愛社を創立した、父虓一郎を一番近くで支えたのは母だし、今では想像できないほど、非常に厳しい家庭環境の中で、父から逃げ出すこともなく、私達兄弟3人(塊太郎、草次郎、和子)を生み育ててくれたからこそ、現在の私達が存在できているわけだし、昭和20年代初期の頃の苦しかった生活に耐えきれなくなって、高鍋の実家に帰っていたら、私達家族は崩壊し、父も中途で挫折することになっていたかもしれません。そういう意味では、石井記念友愛社にとって、影の功労者でもあります。
 私的なことだからと遠慮していたら、また自分の母のことだからと照れてにげていたら、母の功績は、時の流れの中で風化してしまう、そのことは石井記念友愛社の歴史にとって損失になるし、母の人生に対しても申し訳ないことだと思い、今回、母への感謝をこめて、ちょっとまとめておくことにようにしたのです。

                     

 母が結婚したのは昭和18年です。母が22歳の時、父は29歳でした。その頃は戦時中で、父は満州ハイラル国境守備隊を除隊となり、倉敷紡績株式会社で大原孫三郎氏の伝記編纂の仕事に従事している時です。大原総一郎氏の秘書という立場であったようです。

 母は高鍋では評判の美人で、馬場原の一木さんという方の紹介で、父と見合い

をしたようです。母の両親は学校の先生、7人兄弟の長女として生まれましたが、体が弱く、小学校の入学も一年遅らしています。しかし、しかし、その後健康体になって女学校ではテニスをやり、卒業後、東京の文化学院で洋裁も学んでおり、父や祖母の友おばあさんにとっては、申し分ない嫁であったのかもしれません。

 まだその時点では、福祉の仕事をするなどと言うことは、二人とも全く考えてはなかったのです。今回、なぜ父と結婚したのかと母にたずねると、
 「頭の大きな人だなと思った。何が気に入ったのかは分からない」と、目をクルクルしながら答えました。昔は、多くは見合いであり、親同士が合意すれば、特別の理由でない限り結婚していたのでしょう。
 もし、その後戦争がドロ沼化してなかったら、私達家族の運命は、違ったものになっていたのでしょう。東大で東洋史を学んだ博学の父ですから、研究者の道を歩んだのかもしれません。

 結婚し約1年後、召集令状が父に再び来て、今度は、岡山連隊に入営、それからちょうど一年後、高鍋に駐屯している時に、昭和208月の敗戦を迎えます。
 そして、柿原政一郎氏よりの助言と導きまで、戦災孤児・浮浪児の救済事業へと挺身することになるのです。歴史の節目節目に名前を残していくのは、主に男性ですが、その男性を支えた女性のことは、よほど有名な人物でない限り、登場することはありません。父だけが決意したのではなく、母も全く未知の世界に踏み入っていくことを決意したはずです。
 昭和2010月と言えば父は31歳、母は24歳です。まだ若い二人にとって、未来はどのように見えていたのでしょうか。二人の間でどのような話し合いが行われたのか―。

 父はその頃運営方針として、「自然主義、家族主義、農業主義」の三つを掲げています。石井十次の事業を記念することを目的としているのです。その「家族主義」とは、「分散せる家屋に、共同生活者たる指導者家族と共に起居を同じくさせ、自然にその家族の生活様式にとけこませ、躾をうけ」るというものであり、つまり小舎制で、職員家族と園の子ども達が全体として家族のように生活を送る、そのような形態を父は選んだわけです。
 岡山孤児院が解散してすでに20年がすぎ去り、父は児嶋虎次郎の息子として育って来ていました(その虎次郎も父が中学生の時に亡くなっています)ので、岡山孤児院についてはほとんど何も知らず、「自然主義、家族主義、農業主意」と立派な方針を掲げては見たものの、その三つのどれも、具体化するには手探り状態であったはずです。
 子ども達の数は最初、岡山の施設から移って来た戦災孤児21名であったようです。それから、次々に子どもの数は増えていきます。私の兄が生まれたのが昭和22年、私が24年、妹の和子が26年、家族だけで生きるのも大変な時代に、施設の子ども達以外に次々に我が子を生んで、母の不安はいかばかりだったろうと想像します。

 米寿のお祝いの数日前、母に、その頃の苦労についてどう思うかと尋ねてみました。答えは、 「こんなもんかな、と思っていた」
 そんな楽天的な母ではなかったと思うのですが、時が昔の苦労を風化させているのかもしれません。 生活はほんとに貧しく、配給米にさつま芋の葉や大根葉を入れた雑炊を食べたり、アメリカ軍からもらったララ物資の古着を縫い直したりしながら日々を送っていたのです。父は農業の経験もそれまでなかったわけですから、農作物も最初の頃は満足に取れなかったようです。
 このごろ、私達家族をしっかり支えてくださったのが、母の実家である高鍋の財津家でした。私達は、時々、母に連れられて、馬場原の実家を訪ねています。私たち兄弟は、生まれたのが施設内であり、幼年期、施設の子ども達と一緒に育ちましたので、家庭の味というものをほとんど知らず、財津家の食事や雰囲気は、非常に新鮮なものでした。「家族主義」を掲げてはいても、我々に職員の子どもにとっては、そこは“施設”であったのです。
 その頃の母は非常にやせていて弱々しく、頑健で軍人のように精悍な父とは対照的でした。頼りなげな母に、私達兄弟3人は存分我がままを言って、困らせていたような気もします。母が体を壊して入院し、私達兄弟は財津家に預けられたことがあります。私の記憶には、あまり残っていないのでずが、夕方になると、私は縁側の柱にもたれ外を見ながら、「アーヤン、アーヤン」と言って泣いていたとか。

 今回の米寿のお祝いに、母の2歳下の弟で財津家の長男である財津吉俊おじさんが車椅子で出席してくださいました。母と同じように足腰がずいぶん弱っておられ、もうほとんど外には出られなくなっているのですが、母の米寿を一番喜んでくださった方でしょう。
 あの頃、弟として母の苦労を一番心配しておられたのではないかと思います。乾杯をお願いしましたら、挨拶の途中、感極まって、涙を流しておられました。私達家族にとっては、ありがたい涙でありました。おじさんの心中は、あの昭和20年初期の苦労を、良くぞ耐え、生き延びたと言う思いなのかも知れません。
 そのおじさんが、今回も、「草ちゃんの小さい時のアーヤン、アーヤンが忘れられん」と述懐しておられました。まさに、あの頃が我が家族の危機であったのであろうと思います。次男の榮夫さん、三男の隆斎さん、二女の弘子さん、三女の功子さん、四女の巨子さん、それぞれおじさんおばさん方に支えられ、私達家族は危機を乗り越えることができたのです。感謝しないわけにはいきません。もちろん、もう亡くなっておられませんが、母の両親である財津万次郎おじいさん、登貴おばあさんへの感謝も忘れてはなりません。
 石井記念友愛社は、その後、子どもの数が増えるにしたがって、寮の数も増えていき、多い時には、6つの寮舎が広い敷地に点在するようになります。職員も増え、それぞれ任されていきます。各寮舎の中で、職員家族が園の子どもたちと同居したわけです。私達家族と同じような、世間には見えない、家族の苦労もそれぞれあったわけです―。
 私達家族は、その後も色んな人々に支えられながら、家族として生きながらえ、私達兄弟3人も、それぞれ小さな幸せをつかむことができました。父は人生を全うし、他界しておりますが、母には、今後も長生きをして私達子や孫や曾孫を見守って欲しいと願っています。

 今回、米寿のお祝いをしながら、感じたことは、母という一人の人生の重さ(尊厳)であり、血族の絆の大切さであり、家族が存続するための心のあり方(感謝)等です。
 戦後、個人主義が各家庭まで普及し、お年寄りを遠ざけようとしたり、色んな親族行事から自由であろうとしたり、家族同士でも打算的に付き合ったりと言うような世の中になってきていますが、日本人として、「家族」のあり方を自らの問題としてもう一度考え直してみなければならないと感じています。

 最後に、石井記念友愛社の「家族主義」の実践目標を三つ掲げます。

     家族への感謝の気持ちを育てます。

     祖先への敬いの気持ちを育てます。

     家族の絆を大切にします。

          


    ―2008年8月―
    再挑戦

 35度を越えるような非常に暑い夏が、突然やって来ました。宮崎県では、76日(日)が梅雨明けのようです。去年より1週間ほど早くて、今、あわてて園周囲の花壇に花の定植を行っています。いつも早く植えすぎて、長雨でサルビアやポーチュラカが腐りますので、今年は、ギリギリまで定植を遅らせてみたのです。苗が花壇に根付く前に真夏に突入してしまいましたので、これから、水やりが大変です。他にマリーゴールド、コリウス、ケイトウ等、これから秋にかけて頑張ってもらわねばならない花々です。トレニアやメランポジウムは、こぼれ種から勝手にあちこちに芽を出していて、たくましく花を開いて私達を癒してくれます。カンナの花も生き生きと鮮やかに、赤やピンクやダイダイ色の花を咲かせ始めています。私達もこの夏を明るく元気よく乗り切っていきましょう。

 ところで猛暑の中、第16回児嶋虓一郎記念式(創立記念式)を墓前において、高鍋教会田中馨子牧師の司式のもと、とりおこなうことができました。以下、その時の理事長としての挨拶です。
 皆様、お忙しい中、また暑い中、児嶋記念式に御出席下さいましてありがとうございます。石井記念友愛社を代表しまして、一言御挨拶申し上げます。
 昨年のこの記念式の時、私はここで、障がい者通所授産施設の立ち上げは、未来へのプレゼントであると言いました。 その授産施設も、先日、国・県・町の補助金が正式に決まりまして、いよいよ来月末頃から建設に入ることになりました。障がい者グループホームの方も、すでに日本財団からの補助が決定し、これも来月頃から建設の改修に入ることになります。そのための自己資金作りのため、寄付募集も行ってまいりましたが、こちらの方もおかげ様で目標額に達することができております。この建設資金作りのために関わって下さった多くの皆様に、感謝申し上げます。
 さて、建物は今年中に形となって現れると思いますが、これからは、その中身を考えていかねばなりません。未来へのプレゼントとするためには、何をどうしていかねばならないのか、色々と考えています。
 私達は、まず障がい者の方々に染色、機織りそれに無農薬野菜作りを覚えていただこうと考えています。スタッフはある程度確保できていますが、問題は、ボランティアであろうと思っています。
 一昨日、綾で手紬染色工房をやっておられる秋山眞和様がスタッフの一人岡田心平様と一緒に見に来て下さいました。先月、綾をお訪ねして協力依頼をしたことに対して、「どういう手助けができるのか」と実際に現場の確認に来て下さったわけであります。染色、機織りを指導して下さる予定の横田康子さんの工房(森の空想工房)にも御案内させていただきました。再来週には、ボランティアで助けて下さる予定の地域の御婦人数名の方と一緒に、もう一度綾の工房に視察に伺う予定です。
 障がい者の方々が通って来られるようになったとしても、お一人お一人の個性や適性を発見するまでには、かなり根気と時間が必要でしょう。スタッフの目だけではなく、ボランティアの方のお力もお借りしながら、その能力を発見し、それぞれに合った仕事の役割分担を決めていく。この作業が一番大事なことであろうと思います。
 これからやろうとしていることは、私達にとっては未知の世界ですが、互いの人間性を信じ合うならば、きっと成功する。そう確信しております。

                     

 それぞれの障がい者の人達が、自らの長所を発見し、それに合った作業に取り組み、仕事を覚えて、やがてその道の職人として精神的にも社会的にも独立してもらう。一人の社会人として誇りを持って生きれる世界の構築に向かって、互いに努力し合っていく。授産施設の利用者が自立できるようになったら、ボランティアとして同じように仕事を覚えていただいた方々も、一人の職人として独立していただき、それらの染色や機織り等をこの地に根付かせていく。つまり、一つの工芸村作りへの挑戦であります。そのことは、すなわち石井十次がこの茶臼原に描いた理想郷作りへの再挑戦であるとも考えています。
 私は、その再挑戦への事業に、かつてこの茶臼原の理想郷作りに、石井十次とともに参戦した当時の職員や子ども達に縁のある方々が、ボランティアとして加わっていただけることが何よりもありがたいことであると思っております。石井十次がこの茶臼原に理想郷を描き入植し始めてからすでに110年以上の年月が過ぎ去っていますが、こうして縁のある者によって、福祉を核とした地域社会作りへの挑戦を続けられることを、私はありがたくまた誇りに感じます。
 実は、父虓一郎も、工芸については大いに関心を持っておりまして、やはり、機織りや木工を始めた時期があります。昭和30年代初期です。まだ御健在で本日も出席していただいていますが、当時、職員の小崎岩子さんは、倉敷民芸館に一年間出張して機織りを学び、帰ってから中学校を卒業した女の子に、指導していました。当時、テーブルセンター、ネクタイ、花びん敷き等を作っておりました。別に男子の方は木工部もあり、中学卒業生達の職業教育(その学ぶ場を「生活学校」と呼びました)として指導していたわけであります。これらがその後も維持発展しておれば、この地域に工芸村が出現していたのかもしれません。

 残念なことに、昭和35年以降、日本が高度経済成長時代へ突入し、中卒生達は、大都会が労働力としてどんどん吸収するようになりましたので、消滅してしまいました。時代の波に飲み込まれてしまったと言ってもよいでしょう。
 今、私達社会福祉法人を囲む社会状況がどのようなものなのかを、客観的に把握する必要があります。親殺し子殺しが日常化し、青少年の犯罪もより凶悪化して来ております。犯罪の世界にまで目を向けないにしても、格差社会は深刻な問題となって来ていて、ワーキングプア問題もよく新聞でとりあげられるようになってきています。
 働けども、働けども、生活保護の生活レベルにさえ達することができないのであります。おそらく、私達の見えない世界で、多くの子ども達が高校等の進学をさえ断念せざるをえない状況に追い込まれているのであると思います。
 一方、物質的生活は充たされていても、働く意欲を失ってしまった若者達が60万人から100万人くらい、やはり、私達の見えない世界で悶々としているのであります。そのような自立に失敗して部屋に閉じこもる我が子を見て、親も同じように悶々としているのであります。
 我が国では、本当に今、家族が危機に立たされているのではないかと思います。私達の目の前にそのような苦しんでいる人達がいないからと安心してはいけない。
 そういう社会状況の中で、私達は福祉の仕事に従事しているのだということを認識しなければいけない。目をそらしてはならない。
 私は、石井記念友愛社の使命とは何なのかと、この頃常に考えます。能力以上のことはできないけれども、この現代社会の福祉ニーズに精一杯答えていきたいと思います。ただ我が身を守ることだけにしか関心がなくなったら、もう行政に身を売るしかない。
 ここには、友愛園の子ども達、それに石井記念友愛社の職員の多くが出席しています。友愛園の子ども達は、障がい者の人達が通ってくるようになったら、障がい者の人達を心広く受け入れてほしい。そしてともに新しい何かを生み出す心豊かな人間に成長してほしいと思います。そのことを、石井十次先生は、この地で一番求めていたのではないかと思います。
 そして、職員の人達は、今の自分に与えられた仕事の枠の中だけで人や世間を見るのではなく、常に、石井記念友愛社の基本目標、

 自然主義  健康をつくります

 家族主義  家族をまもります

 友愛主義  家庭をささえます

 この三つを忘れず、その観点から自分達の仕事を評価し反省のできる職員であってほしいと思います。そして一つ一つの福祉実践が、今の歪んだ地域社会の中で、未来への希望につながるものになることをめざしてほしいと思います。
 それから、今日は後援会関係の方々も御出席下さっています。今日は、私達石井記念友愛社の職員、子ども達にとって、創立記念日であります。先ほどの未来への思いを新たに持ち直したいと思いますので、これからも、叱咤激励、そして御支援よろしくお願い致します。本日は、暑い中ありがとうございました。

             

 ゆうあい通信


児嶋草次郎

このページは、石井記念友愛社理事長・児嶋草次郎の連載エッセイです。このエッセイは、石井記念友愛社が発行する「ゆうあい通信」に掲載されたものを転載します。この連載は、1992年(第一号4月1日発行)に始まり、以後書き続けられ、現在も書き継がれています。日々の園生との交流や指導・教育のこと、社会の動向や移り変わる自然界のできごと、石井十次の生涯や友愛社の歴史などが、静かな語り口で綴られ、福祉の現場からの報告・資料ともなっています。このページでは、過去に発表されたものに遡りながら、最新作を随時掲載してゆきます。

石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が児童福祉の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開、『石井記念友愛社』として創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や岡山孤児院のさまざまな資料が保存・展示こされ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年(2009)「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。

  社会福祉法人石井記念友愛社
   宮崎県木城町椎木644-1
TEL0983-32-2025FX0983-32-3916

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

       方針
   自然主義 健康をつくります
   家族主義 家族をまもります
   友愛主義 家庭をささえます

   到達目標
 友愛の地域社会つくり