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石井記念友愛社

2007年は、石井十次が、最初に児童一人を救い、「岡山孤児院」を立ち上げ、宮崎のこの地に将来の理想郷づくりをもとめて土地を求め始めてからちょうど120年目の年にあたります。また、2008年は武者小路実篤がこの地に理想郷「新しき村」づくりを試み始めてから90年目の年になります。その節目の年に、この茶臼原台地に第三の理想郷づくりともいうべき「茶臼原自然芸術館」と「天命館」が開館しました。この二つの施設は、障害を持つ方々が染織と農業の技術を身につけることで、地域の中で「就労・自立」を実現することを目指しています。具体的には、茶臼原の豊かな自然の中から採集した素材から糸を採り、布を織り上げる「自然布」を中心とした染織作業と、有機農法を軸とした農業の実践です。障害を持った方々と健常者とが協働し、自らの秘めた力を掘り起こし、新しい地域文化の創造を実現することを目指します。石井十次がこの茶臼原大地に福祉の理想郷を描こうとしたように、これから、新しい「福祉と芸術と農業」をひとつにした理想郷づくりの挑戦が始まるのです。

石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が孤児救済の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開。、『石井記念友愛社』が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や人間国宝の芹沢_介製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。

茶臼原自然芸術館

  社会福祉法人石井記念友愛社
   宮崎県木城町椎木644−1
TEL0983−32−2025FX0983−32−3916

農業

ショップ

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

                  

           「茶臼原自然芸術館」

                児嶋 草次郎

 11月から12月上旬にかけて、私は、大阪と東京という大都会のまん中に立つ機会に恵まれました。行く度にビルは高層化していき、街を歩いても都会人にはじきとばされそうになり、電車や地下鉄に乗っても無機質な臭いに息苦しくなります。それらの繁栄のエネルギーは、おそらく我々の住む田舎や外国から吸い上げているものなのでしょう。

 今まで我々の田舎人は、これらの都会の栄華にあこがれて、田舎にも不似合いな観光施設や文化施設を作 ったりして来ましたが、それがどこも無残な姿と化しつつあります。そして今ようやく、地方の人々は田舎のやり方があるのだということに気づき始めていますー。

 私は今、あの反自然・人間的な都会文明に対抗して一つの計画を一所懸命イメージしています。それは「茶臼原自然芸術館(仮称)」の建設です。具体的には、障害者通所授産施設の立ち上げです。

 今年の4月「障害者自立支援法」が施行されました。知的、精神、身体の3障害が一元化され、「障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与する」(第一条)と、その目的をうたいあげています。福祉サービス利用料の負担増という厳しい現実はありますが、今後、障害者も、地域の中で就労自立をめざすという目標が明示されたのです。障害者の方々が地域の中で、障害を持つということで差別されたり逆に甘やかされたりするようなことはなく、地域の人々と共生し合いながら、地域社会の発展のために協働し合っていく、そのような社会を実現しようという理念なのです。地域の中で生活するにとどまらず、就労をめざすというところに私は注目しています。その就労のための訓練校、教習所、学校が「障害者通所授産施設」ということができます。

 来年(2007)、石井十次が最初に児童一人を救い「岡山孤児院」を立ち上げ、宮崎のこの地に、理想郷作りを夢見て土地を求め始め(明治20年)てから、ちょうど120年目の年になります。また、再来年(2008年)は、武者小路実篤がこの地に理想郷「新しき村」作りを試み始めてから、ちょうど90年目の年になります。

 その節目に、ほんとうのノーマライゼーション(ソーシャルインクルージョン)を実現する。(それは、石井十次が描いていたものでもあります)ための拠点作りを試みるということになります。この木城町から西都市へかけてひろがる大地に、第三の理想郷作りをめざすと位置づけたいと思います。単なる一つの小さな福祉施設がポツンとできるにとどまるのではなく、地域へ町全体へと波及効果を充分に期待できるからであります。そして、きっと、他の障害者施設へとその輪は広がっていくことでしょう。

 石井記念友愛社は、石井十次や共に生き働いた職員・子ども達が守り築き上げた理念・生活文化・労作文化・自然環境を、戦後60年間、堀り起こしながらひたすら守ってきました。保育園の子ども達は、自然林の木の実や木の枝を使って、あるいは羊の毛を使って、様々な作品作りを重ねて来ています。毎年収穫祭から1224日頃まで、元教会のギャラリーで展示していますが、それらはどれもこの茶臼原の自然の結晶と言ってもよいすばらしい出来映えです。友愛園の子ども達は、一年を通して、有機野菜や米を作っていますし、木彫りの看板や張り子の面を作ってみたりしています。そのような文化が生き続けているのです。

 一方、56年前頃から、この理念・文化に共鳴する機織り染色家、木工芸家自然農家等がこの地に住み始めています。私はこの茶臼原に住む、子ども達の感性の育ちのために、何らかの良き刺激を与えて下さる人々だと思い受け入れてきました。

 石井記念友愛社の理念・文化・自然、この地に住む工芸家達の技術・知恵と障害者の方々に伝授する場、一緒に学び合う場、そしてそれぞれに職人として自立し働く場を建設し、それらの活動を通し、これからの地域社会作りに参加していただく、そのような新しい理想郷作りなのです。

 特に、機織り・染色をこの地に根づかせることを夢見ています。元園舎を改造して「空想ミュージアム」活動を高見乾司さんと一緒に行っている、横田康子さんの持つ技術力に私は期待しているのです。染色に関する知識や技術、そして機織りのそれは、日本のどこに出しても通用する高度なレベルのものでしょう。彼らが、ここへ来て、5年ほどにになりますが、私はずっと、その技術が文化としてこの地に根付く日を待ち続けてきました。

 機織りは、まず、その糸の材料(コウゾ、麻、クズ等)を山から収集する作業から始まります。染色も同じです。藍(あい)は畑で栽培しなければなりません。一つの作品が出来上がるまでに、色んな作業があり、障害者の方々がその人の能力や適性に応じて、それぞれの分担箇所で技術を習得していくことができます。
 先ほども書きましたように、この授産施設は通過点でしかありません。自動車の教習所で車の免許を取ったら、後は自分で運転するように、その技術を習得し自信をつけたら、自立≠キるのです。つまり、派生的にみんなで企業化し、健常者と一緒に職人として働いていただくのです。
 健常者の方々は、まずボランティアとして授産施設を支えていただき、その中で一緒に学ぶということができるでしょう。障害者の方々を側で支えていただきながら、一緒に技術を習得していただく、そして一緒に卒業≠オ、次に一緒に働く、それを何度か繰返していくうちに、この地の産業として育っていくに違いないと、私はイメージしているのです。やがてこの地が工芸の村として再生していくことでしょう。

 私がこのような構想を抱くに至ったのには一つのきっかけがあります。友愛園を卒園していった子ども達の中にも、知的障害児(者)がいるという現実です。昔はそういう児でも何とか自立していました。ここで厳しく生活習慣をたたきこまれ、また労作指導によって働くことの基本を身につけ、社会に巣立って行ったのです。ところが、最近では、そういう児が社会の欲望の餌食(えじき)になるようになったのです。ある児の場合、苦労して取得した自動車の免許証を持ってサラ金へ行き、友人のうまい口車に乗せられて借金をし、本人も見境がつかずにどんどん借金を重ね、結果的には200万以上になって、自己破産させねばなりませんでした。ケイタイ電話にはまりこんで借金を重ねた児もいます。色々と失敗を繰返して、大人の施設で生活している卒園生もいます。
 この広い石井記念友愛社の敷地の中に、そのような子ども達が安心して暮らせる場は作れないものか、そのことが私の課題であったのです。まず、通所施設を作り、この地で住む必要な障害者が56人と出て来たら、グループホームを作って、共同生活をしていただく。都会のように贅沢(ぜいたく)はできないかも知れないけど、安心して互いに助け合って暮らしていける。そういう生活は保障できます。

 私は、この「茶臼原自然芸術館」では、知的障害者だけではなく、精神障害者も身体障害者も三障害を越えて共に補い合いながら、学習・就労できる空間でありたいと考えています。それぞれの障害は、それぞれの個性である、それくらい互いに認め合える関係でありたいものです。健常者も含めて、その協働には色んな困難が伴うでしょう。しかし、その困難に立ち向かう勇気がなかったら、この夢の価値はありません。石井十次の名前を掲げてやる仕事に最初から限界があってはならないのです。これが実現した時、本当の障害者福祉だと言えるのだと思います。皆様、来年は、御支援・御協力、よろしくお願い致します。

 さて、具体的な計画です。来年度の石井記念友愛社の事業計画にきちんと掲げることから、行動は始まります。一番の問題は資金です。建築資金が5000万円ほどかかる予定です。その半分ほどは、寄付で集めたいと思います。そして、今回我が町木城町にできるだけの支援をお願いしたいと考えています。それは、木城町における、第三の理想郷作りであると位置づけているからです。常に理想を追い求めるのがこの木城町の風土です。これからもそうであってほしいと願っているのです。都会の真似ではなく、ほんとうにその土地の歴史・文化に根ざした事業こそが、この土地の人々に自信と誇りを育てていくのであると思っています。

20085月障害者と健常者に囲まれた純和風の建物が、石井記念友愛社の中に建っている姿が、今、はっきりと見えます。
                  

茶臼原自然芸術館・開館
     2009年5月15日

       方針
   自然主義 健康をつくります
   家族主義 家族をまもります
   友愛主義 家庭をささえます


    
茶臼原自然芸術館の「自然布」

2009年4月に開館した「茶臼原自然芸術館」では、周辺の山野に自生する植物を採集し、その繊維から糸をとり、布を織り上げる「自然布」の制作に取り組んでいます。「自然布」とは、私たちの祖先がはるかな昔から使い続けてきた「衣」の歴史に直結していますが、明治以降の近代化によって急速に衰退しました。けれども、「手仕事の原点」ともいわれ、「自然から素材をいただく」その仕事は、近年、見直され始め、復元や保存、現代生活へのアレンジなど、携わる人も少しずつ増えています。当館では、さまざまな障害をもつ通所者の皆さんとボランティアスタッフ、職員と協働し、山野や森に出かけて実際に素材を採集し、加工・織りまでの一貫した講義を行います。深い森や広大な農地、里やまなどが広がる茶臼原の大地は、自然素材の宝庫でもあります。山歩きの楽しさや植物から糸が出来る感動、織りの神秘などを体現するのが「自然布」です。

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葛布を織る




葛は、山野に自生する蔓性の植物です。根からは良質なデンプンがとれ、食用や薬用として古くから利用され続けてきた有用植物ですが、山や畑のへりなどでは、樹木に巻きつき、地を這い、はびこって迷惑がられる存在です。この葛の繊維から、光沢のある上質の糸がとれます。7月から8月へかけて葛を採集し、コースター、テーブルセンター、のれん、タペストリーなどを織ります。

〈1・葛の採集〉


友愛社の敷地の中に、今はあまり使われていない野球のグラウンドがあり、野兎や鹿など、鳥類などの出没する広場になっています。そこは、葛がその蔓(つる)を思いきり伸ばして繁殖する、無法地帯でもあります。今回はこの広場で、葛を採集しました。真夏の太陽の下での作業は暑さと藪との戦いでもあります。それでも、採集した葛の束を持って帰る時には、森から吹いてくる風が心地よく感じられ、爽快です。

〈2・採集してきた葛を煮る〉
採集してきた葛は、束のままパケットに入れて煮ます。これで繊維が柔らかくなります。


〈3・採集してきた葛を室(むろ)に入れる〉

葛の蔓を採集する時、一緒にススキを刈り取っておきます。そのススキで室(むろ)を作って葛の束を包み込み、5日〜6日置くと、発酵して葛の表皮がはがれやすくなります。これを取り出して洗い、繊維を採ります。

〈4・室に入れて5日目の葛を取り出す〉
採集して室に入れて置いた(5日経過)葛の束を取り出しました。表面にカビが出た、良い状態の発酵具合で、納豆に似た匂いがします。表皮は柔らかくなっています。

5・葛を水で洗い、繊維を取り出す

発酵し、柔らかくなった葛を流水に漬けて洗います。近くに清流の流れる小川や沢などがあれば、表皮は洗い流され、作業もはかどりますが、当館では、三段に分かれたの水槽に水道水を流し、その中で行いました。一本の葛の蔓の、表皮と芯の部分との間に透明な繊維があります。これを靭皮繊維(じんぴせんい)と呼びます。古来、糸として利用されてきたのは、この繊維です。表皮は水に流し、芯の部分は捨てます(山や畑のわきなどに捨てれば肥料の役割も果たします)。こうして、繊維の部分が取り出されます。

〈6・取り出された繊維を干す〉

取り出された繊維を干します。夏の陽に照らされてきらきらと繊維が光ります。絹糸に似た光沢です。

〈7・干した繊維を水で湿らせ、裂き、結ぶ(績む)〉
乾燥した繊維を細く裂きます。この状態で「糸」となります。この細く裂かれた糸を結び、つなぎます。この作業を「績む(うむ)」といいます。つなぎあわされた糸が長く伸びてゆきます。


〈8・績んだ糸を板杼に巻いて織る
  
績まれた糸を、板杼(いたび)に巻き、織ります。これからがいよいよ「葛布を織る」工程となります。
 


<1>
     自然布・チョマ(苧麻)の採集と織り

「自然布とは、山野に自生する草木を採集し、繊維を採り、糸にして織られた布をいいます。「絹」が天照大神によって織られたこと、木綿が平安時代ごろに渡来し、江戸時代ごろに普及して庶民の衣類の主流を占めるまでになったことはよく知られていますが、それ以前には、庶民は周辺の山野から蔓性の植物や強靭な繊維をもつ植物などから糸を採り、それを身につけていたのです。チョマ(苧麻)から得られた糸こそ「麻糸」であり、麻糸は縄文時代の遺跡からの発掘例もありますから、チョマ=麻こそ、私たちの祖先が、古代から現代にいたるまで身に付け続けた代表的な衣類といえるでしょう。ここでは、チョマの採集から織りまでの工程を行います。

        
                           チョマの群生

(1)チョマの採集
チョマは、イラクサ科の多年草で、日本列島の至る所に自生する植物です。カラムシ、ラミー、ポンポン草などとも呼ばれ親しまれている植物です。東南アジア原産ともいわれ、中国では紀元前220年頃から知られていたといいます。根株から多数の直立性の茎を出し、高さ1〜2メートルになりまる多年生の灌木で、高温多湿・日光を好み繁殖します。このチョマを夏場(7月〜8月)に採集します。



 (2)チョマの皮はぎ
チョマの皮は簡単に剥がれます。剥ぎ取った皮は乾燥を防ぐため水に漬けておき、ナイフで表皮を削り落します。すると茎と上皮の間にある半透明の繊維が採れます。これが「靭皮繊維(じんぴせんい)」と呼ばれる強い繊維で、糸になります。


                       


 (3)糸作り
皮を剥いだチョマの繊維をつなぎ合わせてゆきます。この作業を「績む(うむ)といい、結び合わさないでつないでゆく方法です。これで「麻糸」が出来てゆきます。

        
                             

 (4)自然布を織る
たて糸に麻糸を使い、よこ糸に和紙の柿渋染めと楮(こうぞ)の繊維を織り込んで、自然布を織ってゆきます。写真は当館の通所者の織り(たて糸は購入した麻糸です)。
   

    ゆうあい通信
石井記念友愛社の現・理事長児嶋草次郎のエッセイです。友愛社と茶臼原のの日常が綴られます。

   到達目標
 友愛の地域社会つくり

染めと織り・自然布