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     宮崎県木城町椎木644−1
   TEL0983−32−2025FX0983−32−3916

<4>
ちょっと時期遅れのソバ刈り



 
ひょっとしたら、誰からも忘れられていたのかもしれません。
茶臼原台地の片隅の休耕田で、野の草に混じって可憐な白い花を咲かせていたソバは
、いつの間にか黒い実を稔らせて、収穫の手が入るのを待っていたのです。
 12月初旬の茶臼原台地に霜が降り、時雨が米良の山脈を白く霞ませています。
霜に焼かれて茎が萎れ、雨に打たれて実が地面に落ちたら、収穫の機会を逸してしまうのです。
冷たい雨がソバ畑をぬらす日、ようやく人出が揃って、時期遅れのソバ刈りが始まったのでした。

 ソバ刈りといえば、通常は鎌で茎の根元から刈り取り、持ち帰って10日間ほど乾燥させ、木の槌などで叩いて実を落とし、「箕」でゴミや枝葉などをふるい落として黒い実だけを貯蔵するのですが、今回は、刈り取る時に実が落ちてしまうおそれがあるほど刈り取り時期が遅れたので、手でしごいて収穫する方法をとることとしました。手のひらで茎の下部を包みこみ、上方に向かってしごくと、手の中に実が残る。それをもう一方の手に持った籠や箱やビニールの袋などに入れて収穫するのです。
 一本一本、手に茎を持ち、梳き取るように実を取り込んでゆく。雨が手や顔やソバの茎を濡らす。まるで縄文時代そのままの収穫風景ではないか。あるいは焼畑伝承にちなむ山姥そのものといえる姿ではないか。
ソバの栽培にちなむ伝承は全国に分布していて、お産に立ち会った山姥から狩りの豊猟を約束された猟師の話や、子どもを食いに出てきた山姥を退治したら、その赤い血でソバの茎が染まったという話などがあります。
山の神信仰とソバの栽培、狩猟・焼畑耕作とは不可分の関係をもちながら、現代に至るまで伝承されてきたのです。

 ちなみに椎葉地方には今も焼畑を行う耕作者がおり、高千穂神楽には「五穀」という演目があって、
五穀の神が米・粟・稗・豆・蕎麦(麦または玉蜀黍の場合もある)の五穀を持って荘厳な舞を舞います

 今年収穫されたソバの実はわずかなものだったが、来年の種としては十分な分量でした。
茶臼原自然芸術館建設資材として杉の木を切り出された森を焼き、育て、野草に混じって生育し、さらに雨や台風の襲来などによって蒔く時期も取り入れも遅れるという過酷な条件の中を生き抜いた、
したたかなソバたちを来年こそは良い条件のもとで育ててあげたい。
そして、挽きたての、あの香り高いソバガキなどを食べたいものだ、と思ったものでした。
 すでに、粉ひき用の石臼は用意されており、準備は万端なのです。


<3>
見事なソバの花が咲いていた



 半月ほどを東京で過ごし、宮崎に帰って、まず見に行ったのは、ソバ畑です。半ば荒れ地のような休耕田に、ただ種子をばら蒔いただけで、手入れもせずに放置し、その間、台風に二度も見舞われたソバ畑は、見事な白い花に覆われていました。強靭な野の草を追い越して、草丈も伸び、まるで高山のお花畑のようです。
 関東以北の地方には、「スバルまんどき(満時)粉八合」ということわざがあって、スバルの六つ星が中天にかかるころソバの種子を蒔けば大変収益が良いことを表しています。今回の私たちのソバは、20日以上蒔く時期は遅れたのですが、北の地方や高山などと違って、標高が100メートルにも満たず、温暖な宮崎の台地では、この程度の遅れは支障なかったようです。この分では、来年のための種子程度は確保できそうで、少し顔がほころんだ一日でした。


〈2〉
野生に帰るソバ




通りがかりに、ソバ畑に寄ってみると、ソバが元気になっていました。二か月ぶりに降った本格的な雨の影響だと思われます。
時期遅れにもかかわらず、芽を出したばかりの、小さな双葉も見受けられます。ソバたちの周囲は、ススキやツユクサ、ネコジャラシなど、生命力の強い野草ばかりで、か弱い感じのするソバが淘汰されるのは時間の問題と思われていたのですが、どっこい、われらがソバ君たちは、逆境を生き延びて、野生の生命力を復活させているようにみえるのです。
それは、このソバたちが、「茶臼原自然芸術館」の建築のために切り出された森の跡地を燃やした「焼畑」で育て、収穫した種子なので、もともと強い生命力を獲得していたからでしょう。
(にわか仕立ての「焼畑」については「森の空想ミュージアム」のホームページの「再生する森」のページをご覧ください。)
野生化したソバの一群は、つぼみをつけ始めているものもみられます。声援を送らずにはいられません。



〈1〉
茶臼原のソバ畑 




茶臼原の西のはずれにある休耕田を借りて、ソバを蒔きました。私たちの仲間である「ひむか村の宝箱」のスタッフの一人の実家がここにあり、6年ぐらい使われていない田んぼがあるからということで見に行ったら、とてもよい状態の田んぼだったので、ひ「むか村の宝箱」と「茶臼原自然芸術館」で協働しながら利用していこう、ということになったのです。当日は二カ月ほど雨らしい雨が降らず、カラカラ天気が続いた後で、おまけに消防署などへの届け出の手続きが遅れたこともあり、草焼きの火入れtができなかったので、直まきで蒔いたのです。蒔く時期も20日以上遅れていたこともあり、心配しましたが、土地も見た目よりは良い状態で、何年に一度化は草焼きをしていた形跡があり、炭化した木の枝などがあったので、ソバの生命力に賭けることにしました。

どんな状態かが気になって、時々、ソバ畑を見に行きます。ソバは蒔いた後、五日目には小さな双葉の芽を出していましたが、その後も雨は降らず、草は伸びてきって、ソバにとってはまことに厳しい環境です。芽は草に混じって、けなげに生きようとしているように見えます。その小さな赤い茎がいじらしく思えるほどです。がんばれ、ソバ君と、思わず声をかけて帰ってきました。  




茶臼原のソバ畑に蒔いたソバの実については、直接「石井記念友愛社/茶臼原自然芸術館」に関連するいきさつがあります。茶臼原自然芸術館の建設に際しては、友愛社の敷地内にある森の杉が伐り出され、建築用材として利用されましたが、その杉は、石井十次とその仲間の人たちが、茶臼原台地を開墾した時代に植えたもので、百年もののみごとな杉が、施設の骨格となって使われたのです。その跡地には、小枝や雑木などが積み上げられ、枯れた色をそのままにしていました。そこで、筆者(高見乾司=茶臼原自然芸術館の指導員として勤務しながらこのホームページを作っています)と80才になったばかり(2008年夏・当時)の二人が、昔経験した「焼畑」を思い出しながら草木を焼き、ソバを蒔いて収穫したものです。その様子を「森の空想ミュージアム」のホームページで記録しておきましたので、その要旨を以下に転載します。つまりこのソバの実は、小規模な焼畑で収穫された実なのです。詳しくは同ミュージアムのホームページ「再生する森」のコーナーをご覧ください(文字検索ですぐに出ます)。


「小さな焼畑」

―火の祭儀― 


 「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」の前の森が切り払われて、明るい光が森に注いでいた。2009年
石井記念友愛社の一角に開館する「茶臼原自然芸術館」の建設資材として、杉材が切り出されたのである。
この杉は、今からちょうど百年前、この地に入植し、福祉と芸術の融合する理想郷づくりを目指して「友愛社」を設立した石井十次とその仲間たちが植えたものである。百年の杉は見事な年輪を見せながら、運び出されて行った。杉が切り出されたこの森には、今後、山桜や檪、欅、榛の木、栴檀などが植えられ、自然に生えてくる植生とあわせて、染織の素材や薬草、木の実などが採集できる森へと再生する取り組みが始まる。その第一段階として、小さな「焼畑」をした。「焼畑」は切り払われた山に火を入れることによって枯れ枝や草などを燃やし、害虫を駆除し、その灰は肥料になり、地力が回復する合理的な農法である。

  
まず、地面を整地し、火を着ける。この時、日本で唯一、古来の焼畑を伝える椎葉村では、「このヤボ(薮)に火を入れ申す、蛇やワクド(蛙)、虫どもは立ち退きたまえ」と唱え、山の神様に挨拶をする。自然とともに生きる敬虔で美しい山人の習俗である。この日は、私(高見)もこれにならい、神楽の時に貰ってきた御幣を立て、心の中で山神に挨拶をした。火は、風下から入れる。パチパチと音を立てて火が燃え広がってゆく

私の母は、今年80歳だが、まだ元気で、家事や野菜作りなどを手伝ってくれている。今回のこの焼畑は、母との共同作業なのである。若い頃、夫(私の父)と一緒に焼畑を経験したことがある母は、今回の作業を楽しみに待っていた。母にとって四十数年ぶりの焼畑がこうして始まったのだ。野に立つと、80歳の媼はなかなかサマになり、堂々とした仕事ぶりをみせてくれたものである。

父と母の最後の焼畑の時、私は中学一年生で、一緒に山に入った。とくに仕事は与えてもらえなかったが、一人で尾根から尾根へと走り、火を入れ、また次の山の峰へと移動して迎え火を放つ父の姿は、まるで火を自在に操る「火の神」あるいは「山の神」のようにみえたものであった。今回の焼畑では、その時の経験をもとに作業を進めた。風下から火を着け、風の方向を見ながら、徐々に火を拡大してゆく。そして、頃合を見て、風上から迎え火を入れる。ごう、と燃え上がった火が、焼畑の中心地点で出会い、さらに大きな炎となって燃え上がる。それが焼畑のクライマックスで、山に生きる男たちが伝える「火の祭儀」のようにも思える瞬間である。



―中国少数民族の村で―

面積50平方メートルほどの、家庭菜園ほどの焼畑は、無事終わった。これから、ソバの種を蒔き、75日目には収穫し、次に焼畑大根を蒔く。二年目には、小豆や大豆などの豆類を蒔き、里芋も植える。こうして、地力の回復と歩調を合わせながら栽培作物を選び四年から7年の周期で耕作地を移動するのが焼畑である。このころ、植生が回復され、植林された杉や桧などが順調に育って、豊かな森となるのである。この森では、最初に述べたように、多様な樹種が混生する森を育ててゆく予定である。

焼畑を終えた斜面に蒔かれたソバは、三日目にははやくも芽を出した。そして一斉に芽吹き、その薄赤い茎をすいと延ばして、朝は東にその葉を向け、夕方には西へと傾けて、太陽の光を懸命に吸収しようとするのである。 二週間が過ぎたころ、台風がきた。はらはらしながら夜を過ごし、翌朝、真っ先にソバ畑へ行ってみると、吹き飛ばされてきた木の枝の下敷きになって倒れたものはあったが、大半の若芽が無事だったのでほっとした。倒れたものも、三日後にはしゃんと起き上がり、中には小さな蕾をつけているものさえあった。一ミリあるかなしかのか細い茎は、強靭な生命力を秘めていたのである。

中国四川省成都市の北方、揚子江の源流のひとつともいわれる「泯江」中流部に住む少数民族「羌(チャン)族」の村を訪ねた時のことである。川添いの道を遡上していて、ソバ畑を見つけた私は、思わず大声をあげて車を停車させ、走ってそこまで引き返し、畑の縁に立った。それは、日本ソバの純白の花とは違って淡紅色の花だったが、茎や葉は、まぎれもなくソバのものであった。標高二千メートルの山里に咲くソバの花と、その向こうを流れ下る泯江の水流、真っ青な空の色など、忘れがたい旅路の風景である。。
 羌族は、古代中国では中原の北西に居住した遊牧民族で、中原で政変が起こるたび、亡命してきた貴族や武将を受け入れたり、歴代の王朝と婚儀を結んだりした。山岳に依拠し、男は精悍だが心やさしく、女は美女揃いであった。この羌族は、次第に漢族に圧迫され、西へと民族移動を繰り返し、現在地に住むようになったのである。彼らは、険しい山岳に石を積み上げて家を築き、その家と家は連結されていて、数百戸の家が城砦のような構造をなす。集落の中心に広場と高い石の望楼が築かれる。この美しい石の村で、二千年以上の歴史を彼らは刻んできたのだ。
 羌族の村を訪ね、村長の孫娘という端麗な美女に案内されて集落を巡った時、一軒の家の軒先に、石臼が置かれているのを見て、私はまた感動した。それは、私が子どもの頃、ソバ畑で収穫したソバを挽いて粉にした、あの石臼とまったく同じ構造のものであった。背後に聳える泯山山脈には野生のパンダが棲み、その泯山山脈に連なる山脈の一つから流れ出る大河・金沙江の流域は黄金の産地で、黄金の仮面や四メートルもある青銅仮面の出土した古代の遺跡「三星堆」を擁する。
 この美しい羌族の村は、2008年の4月、四川省を襲った大地震によっ壊滅状態となった。刻々と流されるテレビのニュースを見ながら、私はあの美しいソバ畑と石の村と、村長の娘を想い浮べた。もう、この世に、あの村は存在しないだろう。繰り返される自然災害が、人間による過度の浸食に怒った地の神の警告だとしても、それはなんと厳しく、容赦のない一撃であることだろう



―ゴールデントライアングルの焼畑―

 象に乗って、峠を越えた。タイの山岳民族の村を訪ねる旅の途上であった。象は、メコン川の支流を一時間ほども小さな船で遡上した川沿いの村で飼われていて、仕事がない時には、付近の山で草を食べたり、川に入って泳いだりしていた。客があれば、背に乗せて悠然と山を越える。かつては熱帯雨林に覆われていた山は、繰り返される木材の伐採によって、草地の多い平坦な山容となっていた。それでも、道が奥山にさしかかれば、密林の中をトンボに似た蝉が飛び、小さな村が見えると、その周辺から立ち昇る焼畑の煙が見えた。広大な山は、焼畑をしなければ、たちまちジャングルとなり、人が踏み込むことは出来なくなるという。焼畑は、細々と暮らす村人の生活を支えながら、この地域の生態系を維持しているのであった。
 豊かな森で暮らしていた象は、森から樹木が切り出され始めると、その運搬に使われ、樹木が切り尽くされると、観光客相手の送迎手段としてしか生きる道はなくなり、きわめて不自然な生き方を強いられている。象使いの老人は、「この仕事がなくなれば、象も私たちも生きていく場所さえなくなるのです」と複雑な表情で彼等の置かれている現状を語った。
 タイ・ラオス・ミャンマー三国が国境を接する地域(中国雲南省とも近接する)は、かつてゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)と呼ばれ、麻薬の栽培地帯として世界にその名を知られた所だ。各国政府の徹底した取り組みによって、現在は麻薬の栽培や取引はほぼ根絶し、かつて地下組織が張り巡らされ、非合法の暴力集団が暗躍した森や山は、果樹やコーヒー、お茶などの栽培地帯となっている。ゴールデントライアングル地点という場所さえあり、そこに立てば、メコン川に面した三つの国を同時に眺めることができる観光スポットになっているほどだ。ただそれは、うわべだけのことかもしれない。ウーロン茶とコーヒー豆を栽培する小奇麗な村には、NGOの名を借りたキリスト教の布教集団が入っていて、小さな教会があり、その土地に伝わる古い民俗・文化は姿を消していた。翌日、訪ねた村は、まだ電気も通っておらず、家屋は屋根も壁も床も竹で出来ている原始的な生活形態を残す村だった。少女は全裸で水浴びをしていたし、村の女は、足踏み式の籾すり機で脱穀をしていた。男たちは出かけていて、村の周辺からは焼畑の煙が立ち昇っていた。そして、そこから先は、私たちが踏み入ることは出来ない場所であった。その風景を、私は美しいと感じたが、それは通りすがりの旅人のひとときの旅情にすぎない。私は、国道沿いの古道具屋で、明らかに麻薬の吸引具とみられる象の形をした陶器を、土産に買ったりしたのだ。ひとたび、山を越え、隣村に入れば、そこは軍政下にあるミャンマーである。その村では古い仮面を使った祭りが続けられているという。が、連れて行くことはできるが帰れるかどうかは保証しない、と、案内者は言う。アジアの辺境の村で、今もなお続けられている「焼畑」やその周辺の民俗を、文明の側から眺めるだけでは、その実態を理解することは不可能であろう。




―ソバの花と花酒と―

ある一日。「花酒」の瓶を抱えて、森へ行く。
「花酒」とは、焼酎(ホワイトリカーが良い)に花びらを漬け込んだだけのものだが、半年を過ぎると花の蜜が溶解し、花びらの色が酒にほのかな彩りを添えて極上の酒となる。たとえば、薮椿の花びらを漬け込んだ酒は、濃密なブランデーのように、四月の深山に咲く黒文字の花を採集し、漬け込んだものは、ポーランドのウォッカ「ズブロッカ」のような香りと味に。そしてソバの花の「花酒」は、北の海を眺めながら飲むスコッチのように。ただの花びらと無色・無臭・透明のホワイトリカーが、変身を遂げるのだ。


 この花酒の作り方は、昔、ある老画家から教わった。画家は、自宅に一升瓶50本分を越える花酒を貯蔵していると言っていた。画家の奥さんは、かつて「前衛」でならした女流画家だったが、末期の癌に冒され、闘病中であった。私は、老画家が、奥さんの口にほんの少しずつ、季節ごとの花酒を運びながら、その行為自体が病魔を調伏する呪法であるかのように、過ぎ去った二人の時間や、多くの出来事などを眼前に描き出しているのだろうと空想した。そしてそれはなんと甘美で美しい時間だろうと思ったものだ。以後、私も花酒を作った。そして遠来の客や仲間などに振る舞った。世界中を演奏旅行で巡っているビオラ・ダ・ガンバの奏者が、花酒を飲みながら演奏し、こんな美味い酒は世界のどこにもない、と嘆息した時など、無上の幸福感に酔いしれたものだ。
ソバ畑からは米良の山脈が見える。蜂の小さな羽音が聞こえる。ソバの白い花に埋もれて、まずは一杯。琥珀色の酒が舌を転がり、喉に落ちてゆく。




こうして、約3升(4,5リットル)ほどのソバの実が収穫された。その実は、食べられることなく年を越し、保管されたままになっていたのだが、冒頭に記したような経緯で、おもいがけなく茶臼原の台地のの一角に蒔かれた。ちいさな「いのち」がどのように引き継がれてゆくか、見届けたいものである。

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

  ゆうあい通信
石井記念友愛社の現・理事長児嶋草次郎のエッセイです。友愛社と茶臼原の日常が綴られます。

石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が児童福祉の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開、『石井記念友愛社』として創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や岡山孤児院のさまざまな資料が保存・展示こされ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年(2009)「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。

      茶臼原の森で
石井記念友愛社の敷地は、広い茶臼原の大地の中でも35ヘクタールの面積をもち、その中に、友愛社本館事務所をはじめ、友愛園、茶臼原自然芸術館、のゆり保育園、ひかり保育園などの施設が点在しています。茶臼原小学校や開拓資料館、祈りの丘空想ギャラリーなどは、石井十次たちが活動した時期の名残をとどめる施設で、一帯は深い森におおわれています。そしてこの地域には、石井十次とともにこの地を開拓した人たちの家族が今も住み、農業や酪農に携わり、さらに新しい創作家も住み始めて、まさに今、「福祉と芸術の森」の様相を示し始めているのです。このページでは、この森で起こるさまざまな出来事や、住人たちのエピソードなどを記録してゆきます。