[設立の経緯など]

 1997(平成9)年4月、社会福祉法人石井記念友愛社は創立50周年を迎え、記念行事としていくつかのの催しがなされましたが、その際有志の間に「この機会に石井記念友愛社を支える会を創立しよう」との機運が高まり、発起人会を作り同志に呼びかけ、同年10月12日に石井記念友愛社・静養館の庭園で設立総会を開き、石井記念友愛社後援会「友愛社支える会」が発足しました。
 その後、会発足10周年に当たる2007(平成19)年5月の総会で会の名称を石井記念友愛社後援会「石井十次の会」と変更し現在に至っています。

              石井十次の会 会員募集

 時代が混沌とし、人々が『こころ』を喪失しつつある時、『石井十次の会』は、石井十次の残した愛や理念、および福祉文化財を、『こころの文化』として多くの人達に、広めたいと思います。

            仲間に入りませんか

                  「事業目的」

石井記念友愛社の福祉・文化・教育活動への後援を通して石井十次の愛と理念の継承、さらには地域福祉の向上に寄与する。

                        「事業」

1  石井記念友愛社の諸活動への財政的支援。
2  石井記念友愛社所有の福祉文化財の保存と管理に関する支援。
3  その他、会員相互の親睦と目的達成のために必要と認められる事業。
             

                  会員の特典
1 毎月、『ゆうあい通信』『保育園だより』を送付します。
2 石井十次の会会報『むつび』を送付します。
3 会員証を発行(毎年更新)します。 
  会員証をお持ちの方は、随時「石井十次資料館」を無料で見学できます。
4 石井記念主催の行事に優先的に招待します。
  

                 後援会加入の方法

・会費は年額  個人3,000円  団体10,000円です。
 寄付もお受けしています。

・会費は、郵便振替口座か現金封筒で送って下さい。 
 住所、電話番号、氏名(団体名)を忘れないように御記入ください。

      振込口座番号  01770-6-74782
          名義: 石井十次の会


不明の点は、遠慮なく以下までお電話でおたずねください。

〒884-0102  宮崎県児湯郡木城町椎木644-1

TEL・FAX  
0983-324612
                       

      石井記念友愛社内  『石井十次の会』

         


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◇石井十次の会のページ◇

  

          方針
   自然主義 健康をつくります
   家族主義 家族をまもります
   友愛主義 家庭をささえます

   到達目標
 友愛の地域社会つくり

     石井十次の会 会報 むつび

   


                 文化財補助金事業

 
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 その建物は静養館の隣り、ほころびかけた梅の古木の側にひっそりとある。終戦直後まで使われていた厨房が、文化財補助金事業により復元されようとしている。第一期事業が終わったばかりで、まだ未完成のままの姿である。
 頑丈な金具のついた重い戸を開けると、十次先生の時代、岡山から船で運ばれたというみかげ石が基礎に組まれ、日を焚いた跡の煤が黒く残っている。明かり取りの天窓から、光が射し込んでくる。その頃きっとこの天窓からは、炊事の煙や湯気がたちのぼり、あたりには料理のにおいがたちこめ、こども等はその中で働いたり、遊んだりしていたのだろう。食べ盛りのこどもたちだ、食事の時間をとても待っていたにちがいない。
 保母さんたちは忙しく立ち働き、若く美しい頬に鍋墨などつけていたかもしれない。
 今は平成23年の春まだ浅い2月、数年計画で復元され、沢山のこどもたちを育てた厨房は目を覚まし、また新しい時を刻み始める。



         鯉のぼりをご寄贈ください
 
 今年も4月中旬から茶臼原の大地に鯉のぼりを揚げるよう計画しています。ご家庭で眠っている鯉のぼりがあればご寄贈ください。
         連絡先 石井十次の会 TEL0983-32-4612

            ☆

        茶臼原の鯉のぼり


            

 新緑に映える茶臼原台地の大空を二百匹を越える鯉のぼりが泳いで゜います。
 この鯉のぼりは、石井十次墓地に隣接する広大な茶畑と農地の上空を飾るため、全国の支援者の方々から贈られたものです。この取り組みは、2007年に石井記念友愛社の後援会「石井十次の会」の呼びかけで始まり、今では、茶臼原の五月の風物詩となっているのです。

 現地に立つ案内板には次のように記されています。


 今から約100年前、茶臼原台地に石井十次が岡山孤児院から、
四百余名の児童少年達と鍬ひとつで広い原野を開墾しながら学び働きながら移り住みました。十次は人の子が人間として自立・自治への道を授けました。少年達は幼くして病に倒れる者もありましたが、多くは長じて立派な社会人となられました。石井十次墓園には、十次慈愛の御生涯にかかわる親族・元孤児達の墓標が今も心つながるように佇んでおります。
 昭和20年(1945)10月、石井記念友愛社が生まれ、この福祉理念事業に多くの厚情・無私のご奉仕・支援を賜りつつ、今日、友愛社後援会「支える会」発足10年を迎え茶臼原の聖なる大空に、全国の皆様方から寄せられた御心こもる鯉のぼりを捧げさせていただきます。

 二00七年五月 社会福祉法人石井記念友愛社  後援会友愛社を支える会

 



                       第161号
                      2011年2月発行
                  中原に嫁いで
                      宮崎県木城町
                        小泉博子

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 私がこの中原に嫁いで、今年25年目になる。いわゆる銀婚式を迎えたのだ。「早かった25年」、「よくぞ持った25年」、「ここまで来たか25年」と表現は様々だが、この間には色々な事があった。その記憶も年を取るごとに薄らいでゆく。
 最近、年を取っていくことに面白さを感じるようになった。若い頃は、失敗を恐れ、いつも背伸びをして生きていたような気がするが、今は成功を求めないようになったせいか、失敗も笑いになるというお気楽な脳になってきた。
 昨年末のことだが、買い物をした時に一枚の抽選券をもらったので、早速その券を持って抽選場に行った。店員が笑顔で『一回だけ回して下さい」と言ったので、私も笑顔で「ハイ」と答えて、ガラガラ回しを始めた。「アーッ」という少し悲痛な店員の声でハッと我に返った。気が付いたら私は、3、4回ぐらい回していたのだ。すでに遅し。白い玉が次々と落ちてきた。すると店員が「ハズレで良かった~。当たりがあったらどうしようかと思いました~。」と苦笑いしながら言った。私は「すみませ~ん、頭が飛んでました~。」と大笑いしたのである。
 人の名前が出てこなかったり、置いた場所を忘れてしまったりなど、年々脳の記憶の部分が働かなくなってきた私。しかし、二人の息子の誕生と成長の記憶だけは、消しゴムでも消せない大切な宝箱脳にしまってある。
 長男は、小さい頃から物を作ること、ごっこ遊びが大好きだった。特にお店やさんごっこはよくやった。身近な物を並べて、私をお客さん役にしたかわいい高い声で「いらっしゃいませ~」と言う息子に「これはいくらですか~」と聞くと、息子は一瞬とまどった顔をして、その後に満面の笑顔で「はい、イクラです!」と答えた。いま思い出してもニンマリとしてしまう。
 次男は、とにかくよく動き、よく食べ、よく寝る子だった。このスタイルは、ほとんど変わることなく成長している。中学生になった今も、夕食後勉強もせずに寝ていたので、「もうお休みですか~?」と尋ねると、息子は布団をかぶったまま「うー、今、眠りと戦っているところ」と返事した。その戦いには負けたらしく、数十秒後には大きないびきをかいていた。
 こんな息子たちも、今年は高校3年生と中学3年生なり、「受験」というひとつの試練を迎えることになる。これからもいろいろな試練が待ち受けているだろう。つまづいてもいいから、立ちあがるたくましさと、前に進む勇気を持っていて欲しい。そして、焦らず諦めずに、自分の道を生き抜いていって欲しいと思う。
 私たち夫婦も金婚式まであと25年。これから先どんなシナリオが待っているのか?二人とも気持ちはハリウッドスターだが、これから先もよしもと新喜劇のような「笑いあり涙あり」の人生になることだろう。
 「これも人生」。
 ゆっくりと老いを楽しみたい。



                       第155号
                     2010年8月発行
             茶臼原開拓の話
                   宮崎県西都市茶臼原
                       松生麻子

   

 私は大都会の横浜で生まれ育ちました。日本が戦争に負けて焼け野原になり、食べるものが何もない頃、茶臼原にいる今の主人の所にお嫁に来ました。この頃の茶臼原は、作物を植えられる畑はなくて、仕事は開墾ばかりでした。主人や弟二人は大きな開墾鍬で笹原を起こし大木を切り倒して根を掘り下げるなどしていました。男の人達でも大変な仕事ばかりでした。
 「姉さんが来ても何もできることはありませんよ」
 と弟たちに言われて、私はただうろうろするばかりでした。
 私の仕事の御飯炊きというと、お米の配給は3日に一度でしたので、お粥を炊く位です。ほとんどは甘藷の苗を取った「とこがらいも」というものを近所の農家から分けてもらい、筋ばかりのお粥を長く煮て、どろどろの汁の中に野草の葉を細かく刻んで入れたお汁だけでした。食べた時は一寸おなかが一杯になった気持ちですが、すぐおなかが空きました。お芋の粉やとうもろこし、また小麦を粉挽きで根気よく粉にしたものなどを団子にして食べました。これは上等です。
 男の人達が畑に出て行くと、私は近くの小川までお洗濯に行きます。石けん等はありませんから、ただ水に長くつけておいて、大きい石の上で何度も棒で叩いたり、もんだり、板でこするだけでした。それでも洗って干すと臭くなっていたのがいくらかましになり、さっぱりしたものになります。それで皆が喜んで着てくれましたので、私は嬉しく思いました。
 洗濯が終わると、今度はお昼の支度です。お昼が出来ても12時にサイレンが鳴るわけでもなく、お昼を知らせることができません。道も無い所へ歩いて知らせることは大変でした。時計は家に一個だけありました。早く帰って来る人、なかなか帰らない人といった具合に様々です。揃って食べないと少ない食べ物なので具合が悪いのです。すると弟が軍隊から貰ってきたラッパを持ってきて
 「これを吹きなさい、遠くまで聞こえるから」
 と私にくれました。でも軍隊ラッパはどんなに力を入れて吹いてもスースーというだけで音は出ません。毎晩のように習ってやっとブーブーと大きい音がするようになり、お昼を知らせることができるようになりました。
 「向こうの山の中には、負けた兵隊が立てこもっているらしい、ラッパの音がする」
 と他の集落の人達から恐がられていたと、ずーっと後になって言われたことがありました。
 赤ん坊が生まれました。赤ん坊はお乳を飲ませられると、家の中や畑の中に寝かされて放っておかれました。泣いたからといって、そうそう抱き上げてやることも出来ませんでした。おんぶでは暖かい日は暑いし、寒い時は寒いし重くて仕事がはかどりませんでした。一寸大きくなって這い出すと、上がり口に降りて来ないよう荷物を入れた箱を並べてバリケードにしたり、こどもにたすき掛けをして帯で柱につないで一人で留守番をさせ、私達は一生懸命畑で働きました。仕事をしている時でも家に残してきたこどもが泣いていないだろうか、怪我でもしていないだろうかと気になってたまりませんでした。仕事に出る時は何事もないように神様にお願いして心の中で祈りました。
 こんな時、石井記念友愛社の児嶋先生から
 「開拓地の人達のためになにか手助けになることはありませんか」
 とご親切な声がかかりました。
 「幼いこどもを預かって下されば、若いお母さん達が一生懸命働けるのですが゛」
 とお話ししました。こうして石井記念ひかり保育園が出来ました。我が家でも2人のこどもが自転車の前後に乗せられて保育園に預けられました。
 電気のなかった開拓地に、昭和24年に電気が付きました。ぱあっと明るくなった夕食のお膳の周りで皆飛び上がって喜び合ったものですが、でもそれ以上にこどもをあずかって貰って、お母さん達は天にも昇る思いが致しました。ひかり保育園ではこども達の汚れた手足を洗い、入浴させ、時間がくれば食事を食べさせてくれました。おしめは洗ってストーブで乾かし当て代えて下さいました。どんなことでも協力しようと思いました。
 お母さん達は友愛社の森に入り食事の薪とりを、水不足の時はお父さん達が友愛社の谷まで降りて水汲みを手伝いました。保育費の支払いの為、お母さん達は友愛社の茶畑で、一番茶の茶摘みをしました。こどもを立派に育てたいという心は作物を育てる、家畜を育てる心と一緒です。そんな一生懸命なやさしい心が、次の時代へと受け継がれていくように祈ります。
                         ☆
 茶臼原は宮崎県のほぼ中央に位置し、標高140メートルほどの高原地帯です。空も星も森も山なみも美しい所です。敗戦後、人々は荒れ地を切り開き、さまざまな苦難の末、今は肥沃な大地がどこまでも広がる農村地帯へと変えて行きました。石井記念友愛社はその一角にあります。(編集部)

                         ☆

                       第153号
                     2010年6月発行
             友愛社に寄せて
                   神奈川県横浜市 三島守

              

 私は宮崎市佐土原町(旧那珂村)出身で現在は横浜に住んでいる83才の会員です。 昔、昭和の初期、小学校の郷土史で茶臼原には石井十次という人がいて、孤児院を開き身寄りのない子ども達を育てていたと習いました。そのことが記憶に残っており、長じて小学校の教員を始めた時、改めて石井十次の福祉の精神、社会人としての人づくり、教育方針、その実践力を知り益々ひかれました。友愛園を何回か訪問して草次郎先生に十次の話を聞いたり、施設を見せていただいたりしました。
 ある時は、十次の足跡を訪ね岡山や大阪を見て回り、十次の蒔いた一粒の種が今は何千何万倍になって社会のために貢献しているのを知り、感激しました。
 毎月送っていただく「ゆうあい通信」を拝読していますが、紙面にあふれる園長先生の人や物に対しての限りない愛情と優しさを感じ、何時もながら心が洗われる思いをしています。
― 例えば
1、いつも通信の上部に身の回りの草や木がえがかれていて、花や葉にそっと色が塗られています。普通、私達が雑草や雑木と呼んで無視し、踏みつけてしまっている植物達です。それを取りあげ、それに一役与えてくださっているのです。人間だけでなく、万物を平等に扱われる園長先生の優しさが感じられます。
2、印刷に使われている用紙は上質紙を使わず、わら半紙B4版の昭和時代に使われていたようなものではあるが、これで十分、用を足しています。質素倹約の心を見習いたいです。
3、用紙には、いつもファイル用の穴が開けられています。使う人の立場を考えてつくってあるのは有り難いです。こうして通信一つ取り上げても、愛情を込めて作製されているのを感じます。

 友愛園は本物の児童養護施設

 優れているのは「ゆうあい通信」だけではなく、園長草次郎先生の経営力、推進力、指導力の素晴らしさです。ながい期間「ゆうあい通信」を愛読していると、孤児院の創始者石井十次のことも、石井記念友愛社として再興された虓一郎園長,、現園長の草次郎氏の、理念や実現のための活動がよく分かります。中でも児童養護施設の子ども達の養育には心血を注がれ、労作教育で田植え、稲刈りと毎年体験したり、畑仕事、薪取り、動物の世話と生きていくための実務をして自立できる体力や心を創らせています。労働の後には慰労会があり、食事会や買い物と楽しい催しも配慮されています。全園での10㎞、20㎞のウォーク会やスポーツクラブで心や体を鍛え、さらに西郷隆盛、特攻平和会館、吉田松陰らのような国の為に命を捧げた人々の業績や考え方を学ばせ、社会人としての自覚を持たせ世に送り出される。この一貫した教育は、どこの施設も真似のできない高邁な教育でしょう。石井十次の血が脈々と流れているのを感じます。
 友愛園もここにきて草次郎園長や関係者の努力によって徐々に世間に知られ、平成9年には「友愛社を支える会」が発足し「石井十次の会」と裾野を広げてきました。「ゆうあい通信」や「むつび」で紹介される石井十次の郷里高鍋が輝かしい歴史のある町であり、傑出した人物を出す風土であることを知りました。
 石井十次が志半ばで逝かれ、その後を継いで虓一郎様、草次郎園長がさらに大きい夢を持ち、新しい時代に合った活動をされていることがよく分かり頼もしく思われます。一歩一歩と福祉始業の夢を実現されている園長は偉大です。児童養護施設の拡充、保育園などの底辺を広げ、健全な子どもの育成、高齢者の福祉と園長先生の人々に幸せを与える福祉の情熱は留まるところを知りません。
 もう35年も前になるでしょうか、友愛園の見学に訪れた時、まだ指導員だった草次郎先生に園内を案内してもらいました。最後に裏の丘に連れて行って頂きました。そこには子ども達がつくった蔬菜類が美しく大きく育っていました。広い畑を取り巻くように十次と孤児たちが植えたという杉の美林が見事でした。さらに私の目を引いたのは、丘の向こうに見える美しい尾鈴山でした。なだらかで優雅な姿の山容が手に取るように見えます。私はしばらく見とれていました。十次も孤児たちもここに立ち眺めたことでしょう。そして悲しみや苦闘の日々を癒され、大きな夢と希望に胸を膨らませていった事でしょう。
 孤児たちもふるさとの母を思い出し、山と話したのではないでしょうか。私も小学校に行く途中、毎日北の方に小さく見える尾鈴山を見て育ちました。空路宮崎に帰る時は、尾鈴山が渚までも出て迎えてくれているような錯覚さえ覚えます。万人この山を見て育ち、無言の力をもらい励まされ、良い社会を創ろうと努力するのかもしれません。
 日向の古墳文化が栄えたのもこの地、明治時代には石井十次や若山牧水を輩出しています。大正時代に入ると武者小路実篤が木城村に「日向新しき村」を開き理想郷を作ろうと試みました。そして今、石井十次やその遺志を継いだ後裔たちがこの日向の地に理想的な福祉の社会を創り上げようと努力されています。その共鳴者も全国的に増え、徐々に夢が実現の方向に向かっている事は誠に喜ばしいことです。推進者である草次郎園長の情熱には驚異と敬服の念でいっぱいです。園長が植えられた山桜の並木はしっかりと茶臼原の大地に根を張り育ち、千年の後までも日本古来の美しい花を咲かせる事でしょう。そして天も尾鈴山も人も見て愛で楽しみ活力をもらう事でしょう。
 「ゆうあい通信」に載せられる草次郎園長の福祉への理想や情熱・実践報告は胸を打ちます。私も万分の一でも真似ができたらと願っているところです。人間の生き方の真髄が書いてあるような「ゆうあい通信」です。毎月となると大変な時もあるでしょう。現在で218号ですので約20年間です、それだけに長期連載は驚異の大事業です。
 現在、将来にわたって福祉や人間の生き方に迷う人の経典として役に立つ事と確信しています。
 人々の命と心を守る「ゆうあい通信」が長く健在であることを祈っています。

                       第150 号
                     2010年3月発行
             あれから十年
             心の道の山桜
            元石井記念のゆり保育園職員 石川君代

 あれからもう、月日はそんなに流れたのだろうか。あの日、空は青く南を向いた斜面の、茶臼原特有の冬枯れの野は暖かだった。卒園間近になったこどもたちと、山桜の苗を植えた。こどもたちは、いつもと違う出来事があると、うれしくなってしまって、心がはしゃぐ。みんな楽しくて、しょうがなくなる。
 そんな、はしゃぐ心といっしょに桜を植えた。卒園の記念樹だった。
 ♪さくらの苗が大きく育つころ
     ぼくらはみんな大人になるんだ♪
 昔はやった歌をうたったら、主任の“もりやさん”が
 「なんだか悲しくなる・・・」
 と呟いた。そしてこどもたちは、それぞれの世界へと飛び立って、行った。あれからもう、十年もたったのだ。けれども、あの日のことを思い出すと、私の心はそのまま、そこに止まってしまう。
 茶臼原には山桜がよく似合う。
 86回もの石井十次先生の記念式が、茶臼原墓地で行われた日、その墓地から石井十次資料館までを桜のトンネルでつなごう。京都の「哲学の道」のむこうを張って、「心の道」にしようと、式の挨拶で理事長さんは話した。その翌日、私は彼を訪ねこどもたちの卒園記念に、桜を植えたいと言った。なにかとても心が躍っていた。
 「こどもたちがいつか失恋したとき、そこを歩くといいね」
 と彼は言った。
 西暦2000年にちなんで植えられた2000本の山桜は、今若木になり、少しずつ蕾をつけはじめた枝を、空に向かってまっすぐにのばしている。
 幾度も季節はめぐって来て、やがて桜は「心の道」にたなびく春霞のように満開の花を咲かせるだろう。
 茶臼原には山桜がよく似合う。 

              

                         ◇
         石井十次を生んだ町に学ぶ
                児湯教育事務所 宮内浩二郎

 私は、児湯教育事務所勤務が2年になるが、高鍋に住んでいるために地域の回覧板等で高鍋の諸行事や出来事等の情報が入ってくる。必然的に高鍋の文化や歴史に興味がわき“見たり”“聞いたり”“調べたり”しているうちに、高鍋町が「文教の町」として堂々と豪語される所以が理解できるようになった。
 延宝三年に高鍋と改められ、秋月藩主の秋月種茂公が明倫堂を開設し、子弟の教育に努めたため多数の偉人を輩出している。この種茂公の弟治憲公は歴史に名高い上杉鷹山である。
 私は、鷹山を知りたくて米沢まで足を運んだ。東北の危機を救った鷹山の偉大さを直に見て高鍋町民として嬉しく思った。松岬公園内にある『なせば成る なさねば成らぬ何ごとも 成らぬは人のなさぬなりけり』の石碑があった。これこそ教育の指針であると改めて思いつつ高鍋への帰路に着いた。
 翌週には、石井十次交流会に参加して、十次の功績や福祉の重要さについて学んだ。私は十次が死の間際に唱えたといわれる“都都逸”

♪♪『鮎は瀬に住む 鳥は樹にやどる ひとはなさけの下にすむ』♪♪

 がとても気に入っている。自分もこうありたいと思うのである。
 十次は明倫堂の伝統である「知行一致」・・・[志を立てたなら行動をする]という人生の心構えをここでみっちりとたたき込まれたようである。そして、明倫堂の伝統を持つ高鍋では、「孝」・・・上の者を敬う心、「弟」・・・長幼の序、「仁」・・・思いやりの心、「義」・・・正義や勇気、を教育の根幹にしている。これらが、現在も高鍋の教育に不易なものとして町内の四つの小中学校の学校教育目標の基調になっている。
 先日、高鍋東中学校で「『黙想朗唱の句』制定50周年記念式典」が開催された。

  沈黙の威々儀を現じて
  背筋を正し顎をひいて掌を腹に
  地軸を貫き天心を透る
  深々の大気を呼吸して
  造化の玄妙に帰せんことを誓う
  兀々たる山嶽の偉容と
  洋々たる大海の度量をもって
  無言を行じ
  悠々無心の境に遊ばんことを願う

 これは高鍋東中学校で一日2回、朝と帰る前に放送で流されている。この句が放送で流れると、廊下を歩いていても外で遊んでいてもその場で立ち止まり、全校生徒が一斉に黙想を始める。学校内が水を打ったような静けさになる瞬間である。この句は、高鍋東中学校の第二代校長である松浦三州先生が作られ、それ以来50年もの永きにわたって「黙想朗唱の句」として受け継ぎ伝統としている。
 今年の卒業式では、全校生徒で暗唱をする予定だそうだ。この「黙想朗唱の句」は、高鍋高校でも実施している。つまり、これらの学校を巣立つ生徒たちの魂のよりどころともなっているのである。
 一方、高鍋西小中学校は石井十次生家から数百メートルしか離れておらず、十次の友愛の精神を基調とした教育方針の元に指導に当たっている。特に、高鍋西小学校では石井十次先生をしのぶ会を実施し、十次についての理解を深めている。
 ところて゜、私は、毎日公社から歩いて通勤している。わずか5~6分程度の時間であるが、その間に様々な感動的な光景を目にする。その一つは、朝夕に出会う中・高校生が気持ちよい挨拶をしてくれることである(小学生には時間帯がずれているのでなかなか出会わない)。生徒たちは、単に頭を下げるだけでなく、しっかりと「おはようございます」「こんにちは」と声に出して、見ず知らずの私たちに挨拶をしてくれるのである。一日がすがすがしい気分になる。これは、他の町ではあまり見られない光景である。
 また、今朝は初老と思われる女性の方が散歩をしておられた。数メートル先でその方が腰をかがめられたので「どうされたのかな?」と一瞬、立ち止まってしまったが、なんと、汚れたビニール袋を拾っておられた。女性の両手は、道路端で拾われたであろう紙くず等でいっぱいであった。なんとなく、自分が恥ずかしい気持ちになった。高鍋町民となって2年になろうとしているが、「児童福祉の父」と呼ばれる石井十次先生を生んだ高鍋町の教育のすばらしさを肌で感じているところである。改めて高鍋町民となった
ことに対する誇りと共に、秋月鷹山公、そして石井十次先生のことを学ぶ機会を与えていただいたことに感謝である。
 余談ではあるが、おかげで昨年の大河ドラマ「天・地・人」をみるのが楽しみな1年でもあった。



 aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa第149号
                     2010年2月発行
              幸せのかたち
                     宮崎市 杉田竹見

               

 私は平成元年の春、児童養護施設石井記念友愛園を卒園しました。長年過ごした場所を離れ、独り『社会』という大海へ放り出された私は、県外へ向かう車窓から流れる景色に今までの生活を重ね、これから自分にどんな新たな試練が待ち受けているのか、と、憂いに満ちていたことを覚えています。
 私は父の仕事の関係で兵庫県神戸市に生を受けましたが、様々な要因が重なり、一歳を過ぎた頃から養護施設での生活が始まりました。多くの人と触れ合う義務教育が始まり、初めて私は自分が人とは違う環境にいることに気付きました。
 時を同じくして、生活を共にしていた仲間が突然いなくなったのは、家庭復帰したからだと知るのです。それからというもの、家庭へ帰っていく友達の後ろ姿を見送る度に「次は僕の番だ。父ちゃん、母ちゃんがひょっこり現れ、僕を迎えに来てくれる」と、何の根拠もない期待を抱くようになりました。
 1年経ち、2年経ち、数年が経ってようやく、どんなに泣いても、どんなに叫んでも誰も迎えに来てはくれないことを悟りました。
 親への失望、不信、恨み・・・私の心の中は父や母への憎しみで支配されていたと思います。あれから随分と月日が過ぎ、私も父と同じ事を経験する機会が多くなりました。父の過去と自分の現在が重なった時、両親がどんなに私を愛してくれたか、自分の体験を通して気付くことができました。
 数年前、父から“持っていけ”と、小さな木の箱を受け取りました。そっと開けてみると、中には油紙に丁寧に包まれた私のへその緒が入っていました。両親が今まで私を心で守ってくれていたことを確信した瞬間でした。
 あの時、故郷から離れていく車窓からの景色を見ながら「調理師になって必ず故郷に帰ってくる」と、誓った夢は、多くの方々の励ましによって夢から現実になりました。
 石井記念友愛社の職員として働いている今、以前、どれだけ自分に多くの方が心を配って下さったのか知ることができました。私には心から色々な『ありがとう』を伝えなければならない方が沢山います。この世に生を与えてくれ、五体満足で送り出してくれた母と父。私を受け入れてくれた茶臼原の豊かな自然。生きる希望や知恵を授けて下さった児嶋草次郎先生をはじめ、多くの職員の方々。寝食を共にし、苦楽を乗り越えてきた仲間たち。私の妻。二人の息子。大切な存在は私が感謝の心を忘れぬように今も尚、温かく見守っていてくれるような気がします。
 振り返ると、友愛園で過ごしたあの生活がこれまでの人生で、私は一番充実していたのではないか、と、ふと思うのです。
 まだ暗いうちに起きて方舟館の庭を掃いたこと。落ち葉の季節、あの大きな銀杏の木が恨めしかった。肩を寄せ合うように皆で食べた食事。牛を使って田畑を耕したこと。素足で水田に入った時の感触。木々のすき間から見えた木漏れ日。稲穂や干し草の匂い。茶臼原の広大な自然で遊びまわったこと。西日に照らされた牛舎に揺られた日。食事の時を告げる鐘の音。狭いベッドの中で独り思い悩んだ夜。
 あの頃の思い出は今も何ひとつ色褪せないままです。
 社会に出てから、友愛園での体験が活かされたことが何度もありました。私の社会に出るまでの境遇は決して不幸ではありませんでした。が、両親と離ればなれになった寂しさは、どんなに時が経とうと忘れられません。
 これから、いくつもの道を迷いながら歩いていく息子の足元に、私は安心という明かりを絶えることなく、灯してあげたいと思っています。
 色々な体験を通して、私は知ることができました。信頼できる人がいつもそばにいることこそが本当の幸せだと。


                       第148号
                     2010年1月発行
                 年頭にあたって
                 石井十次の会 会長 内田聰


               

 昨年は、1955年以来、日本初の政権交代が行われ、大きな変革の節目を感じる年でした。しかしながら、その行く先はどこへ向かうのか先が見えない状況です。
 「20世紀は、戦争の世紀」、「21世紀は、いのちの世紀」という見方があるようですが、今世紀の入り口10年目を迎えて、今、いのちを脅かす環境破壊の問題や世界同時進行の百年に一度ともいわれる不況の大波に翻弄されています。
 一億総中流ともいわれ安定した発展を誇っていた日本も、今や生活保護家庭は増える一方で、年末に年越し派遣村まで設置される状況にあります。
 「21世紀は、いのちの世紀」という言葉の意味は現状をみると、予想を超える環境破壊の進行や利潤追求のみを求める行き過ぎた経済活動などに待ったをかけ、人間本来のいのちの輝きを取り戻すために叡智を結集しての速やかな行動が求められています。
 “愚者は経験から学び、賢者は過去(歴史)から学ぶ”という諺がありますが、石井記念友愛社が立地するこの茶臼原の地には、この混迷の世にある我々に貴重な指針となるものを示してくれるものがあるように感じています。
 静養館や方舟館など由緒ある建物、石井十次関係の貴重な資料等が保管・展示されている特徴ある造形の資料館、周りを取り囲む銀杏や楠などの大木、それらをやさしく包む肥沃な茶臼原の大地には、ここに立つと何か独特の空気を感じさせるものがあります。
 毎年、沢山の方々においで頂いていますが、未だ機会がない方は是非一度お出かけ下さい。私たちもこの地の空気が伝えようとしているものを確かめ大切にしながら、今年もがんばりたいと念じています。
 本年も九年同様変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

                            石井十次の会 役員・事務局員一同


第147号
2009年12月発行
野の花のように
宮崎県高鍋町 則松和恵

 1992年、子どもたちの育つ環境がなかなかよくならないことを憂い、その頃の活動母体『子ども劇場運動』の仲間達と描いた夢構想実現の場が、この『野の花館』です。
 野の花館は、夜神楽で有名な高千穂町土呂久の佐藤トネさん(土呂久公害被害者の会会長)の築120年の家を我家の裏庭に移築したものです。それから17年、大きな夢を目標にがんばるエネルギーなどとんでもなかったけれど不安が増すばかりの子育て事情に背中を押される思いで続けてきたのです。その結果、今、まさに“子どもの文化の拠点”になっているのでは・・・と自負しているのです。
 豊かな自然と古くて広~い大きな家。この場所に来ると何でも許したくなる大人の包容力、これらが上手く機能してストレスを多く抱えているといわれる現代っ子達の心と体を癒し、開放してくれるのです。
 この空間は日常的『ケの日』には子どもの遊び場、季節に一度は『ハレの日』祭りの日です。一年を通して、野の花館まつり、平和を考える集い、いろりびらき、子どものための舞台公演とよそゆきの表情をみせます。これらの企画はほぼ定着し、今年でそれぞれが15回を数えます。
 竹細工・みそづくり・草木染め等、季節の暮らしの文化を子どもたちと愉しみながら人や物との関わり、自然や歴史と出会います。又、さまざまな文化を自分のものとし、仲間と共有し、更に新しい文化がもたらす喜び、楽しさ、安らぎを子どもたちと共に体験します。
 子どもたちから路地裏や自然を奪ってきた大人世代としてせめて残してあげたい空間なのです。野の花館の庭では四季折々の花々が陽光をいっぱい浴びてそれぞれに輝きます。野の花館で育つ子どもたちもあるがままの存在を認め合いながら練り合い磨きあい培いながら、それぞれが美しく輝くことを願っています。

 最近の行事からの報告です。

 第15回野の花館平和を考える集い2009:2人の会『花いちもんめ』の公演でした。照明が創り出す竹薮は、見事に満州の荒野を連想させます。野の花館の梁や柱は皆の気持ちをタイムスリップさせます。2人の会の本公演は野の花館では7回目となります。見終わった人々の感想から三つほど・・・。
  感動的でした!ステージの使い方にびっくりしました。オープニング、エンディング、一つのドラマを強く感じました。また映画のように美しくも悲しいドラマを強く感じました。(37才男)
  “中国残留孤児”という言葉は、テレビや新聞で知っていましたが、このように詳しいことは今日初めて知りました。改めて“戦争の爪痕”はまだ残っているなと実感したし、未解決のままにいつか時間が過ぎ、風化していくのかと思うと濱崎さんのような“伝える人間”の貴重さを痛感しました。(29才女)
  あっという間の一時間でした。もっと多くの方に観てほしいと思いました。平和すぎて普段考えませんが、今の自分達があるのは戦争で命を落とされた、そんな方々の犠牲の上にあるのだとつくづく思いました。これからも平和であってほしい!舞台・照明、素敵でした。準備など大変だったでしょう。お疲れ様でした。濱崎さん、若い!!元気をいただきました。(60才女)

 残念ながら、観た人は20人位・・・?大赤字でした。そんなに赤字だと解っていてどうしてやるの?と言われ、???考えてみました。ここに野の花館があり、野の花館でしかやれない公園だから・・・2人の会の演技力もさることながら、明治・大正・昭和と日本の近代史を見続けた野の花館の醸し出す演技力も大したものだと思うのです。
 伝え続けたい舞台です。

 居場所として地域に開放する『ケの日』はそのまま、もっと自由に遊べる異世代間交流の場として続けていきたいと思っています。年4回の『ハレの日』野の花館祭り・平和を考える集い・いろりびらき、子どものための舞台公演を73回、野の花館になってから80回、取り組んできた事がそれなりに評価されているのではないでしようか。県内でも初めてという作品が多いので町外からの参加が多いのですが、もっともっと地元の人達に参加してもらいたいと思っています。
 古民家と自然の開放感は、今の時代最高の子育ちの場だと思います。この大きな家が教えてくれることを文化として語り伝えることこそ、私達の役割かなあ、と思っています。

―ハレとケ― 民俗学や文化人類学では、ハレ(晴れ)は儀礼や祭り、年中行事にどの「非日常」をいい、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表す。

                   

                       第146号
                    2009年11月発行
        感謝の森のコンサートへの思い
             石井十次の会 宮崎事務局長 太田守人

 今年で15回目となる感謝の森のコンサートも、始めは『十次のオルガン』がきっかけでした。
 16年程前、児嶋理事長から「とても古いオルガンがあるのですが、」と修理の相談を受けたのですが、日常の職務に追われそのままになっていた所、横浜から、元教員で学校のオルガンを自ら修理していたという仁平先生が来宮され、大原館に泊り込んで大修理をし、使用できる状態になりました。せっかく直ったのだからと、児嶋理事長と相談して、明治のオルガン復元コンサートを、宮崎市にある、こひつじ保育園二階の石井記念文化ホールで行いました。私の知人で久留米信愛女学院でパイプオルガンを学んでこられた吉野真理(現・森本真理)さんに演奏をお願いした所、快く引き受けて下さり、ホール一杯のお客様を前に大成功のコンサートでした。
 このオルガンを地元でも披露しようと計画していた所、西都市の鶴田病院が運営する老人ホーム菜花園が、丁度開園したばかりだったので、そこの大ホールで共催で行いましょうという事になり、今の感謝の森のコンサートがスタートしました。せっかくだからオルガンだけでなく他の音楽も聴いて頂こうと、県内で活躍中の弦楽四重奏団にも出演して頂き、とてもすばらしいコンサートになりました。
 常日頃から石井記念友愛社に対し、又諸先生方に対し尊敬の念を持っていた私です。その私が友愛園の子供達に役立てられるのは音楽しかありません。そこで、子供達に本物の音楽を聴いてもらい、社会に巣立って行った時、どこかで思い出してもらえればとの思いからコンサートをプレゼントしようと思い立った訳です。
 これまで出演した演奏家は多士済々です。イタリアのコンクールで優勝した方、世界のコンクール2位入賞の方、九州大会で優勝した方、ロシア留学をした方他、宮崎の一線で活躍されている方々ばかり。その方々が私の真意を汲んで下さり、皆さんボランティアで出演して下さいました。演奏形態もピアノ、声楽はもちろんの事、バイオリン、チェロ、フルート、クラリネット独奏から、ハープ、マリンバ、ファゴット、エレクトーン等たくさんの音楽を聴いてもらいました。これも子供達が普段聴けない音楽を体験してもらいたく、毎年趣向を変えました。第5回目は記念にと、芸大作曲科卒の和田恵さんに、弦楽合奏曲『愛のサムライ石井十次』の作曲を依頼しました。この曲の初演は宮崎の石井記念文化ホールで、15名の演奏者により、市民を招いて行われました。
 そしていよいよ感謝の森のコンサートで演奏が始まると、初演の時とは格段の差の演奏でした。やはり十次先生ゆかりのこの大地からエネルギーをもらっての演奏だったと思います。感動で涙が止まりませんでした。
 それと忘れられないのが、同じ和田恵さんにオーケストラの曲を依頼し、宮崎シティフィルオーケストラにより『石井十次賛歌』の演奏会を開いた事です。皆さんの協力で450名を集め佐土原センターで初演を行いました。この時、『愛のサムライ石井十次』もオーケストラ版に編曲して、同時に演奏してもらい、別の味付けも堪能しました。
 このどちらもCDがありますので、映画DVDと一緒に広められたら、石井十次先生の偉業発信の一助になるのではないかとと考えております。
 友愛園の子供達の為にと始めた感謝の森のコンサートも早15回目になりました。いつまで続くか分かりませんが、20回を目標にこれからも頑張るつもりです。20回目は盛大に開催できるよう、今から楽しみにしております。

              

                      第145号
                   2009年10月発行
          
高鍋東小学校の思い出と十次先生
                  静岡県富士市 日田育朗

 石井十次の会の会員になりたての、61才のものです。
 富士のよく見える町に住んでいます。でもね。生まれは、都城市で小学校と中学校一学期まで高鍋町で、高鍋東小学校卒業は昭和31年3月です。体が弱い人間でした。もしかしたら会員の方で、私のことを知っていらっしゃる方があるかもわかりません。なにをやらせてもできず、勉強はぜんぜんだめな男でした。それでもね。小学校一年の時、台風が来ても一人で学校に行っていました。四年の担任の先生が、石井十次先生の墓に連れて行って下さり、十次先生のことを色々と話して下さいました。その時感動するものがあったのです。人の為につくすこと、そして先生はもっと大切なこと『陰ひなたのない人間になることや』と教えてくれたのです。人のやらないことをさがして、実行することにしたのです。地区の道のそうじ、高鍋駅に竹筒でかびんを作り、家で花をたくさん作っていたので、その花をもらってかざったり、駅のそうじ、駅前のロータリーのそうじ、小学校で給食が始まると、上級生は一年生の給食の手伝いを進んでやるようにしました。私は勉強はぜんぜんだめでしたが、あいさつと人の為にすることはだれにも負けませんでした。
 そして、中学一年の夏休み、母と私は高鍋の家を飛び出しました。それは私の父は大酒飲みで、人が変わってしまう人でした。
 石井十次先生は、大阪へ行ってスラムの人達に手をのばしておられますよね。それは釜ケ崎(あいりん地区)、そして日本橋愛染病院。母と私はその西成警察署の食堂で警察の人の食事と、留置場に入っている人達の弁当(監弁)を作っていました。その弁当は外米と麦の冷えてパサパサのごはん、そしてうどんのだしこぶを、しょうゆで煮たもの、それにチクワとタクアンですごくにおいのする弁当でした。
 警察を出ると悪臭の町で、人が道路ばたでごろごろ寝ていて、そんな所も見てみ通天閣の近くのアパートから日本橋中学校まで通ったのです。勉強はぜんぜんついていくことはできません。でも助けてくれる先生があって卒業し、高校の入学金がないと思ったら建築会社の社長さんが出して下さり、沢山の人々に助けられました。
 今は三人の子供と、生まれた時からぜんぜん目の見えない女房と三代目の盲導犬(真っ黒のラブラドール)と生活をしています。

    *高鍋東小学校時代の旧知の方々との交流を希望されています。
             〒416-0931
             静岡県富士市蓼原78-14 日田育朗

              

                       第144号
                     2009年9月発行
                  石井十次交流会
            2009年8月30日高鍋町ホテル四季亭にて

 今年も、8月30日(日)に石井十次交流会が高鍋町ホテル四季亭において230余名の参加のもと盛大に開催されました。
 児嶋理事長の主催者あいさつの後、国際医療ボランティア団体AMDA(アムダ)理事長 菅波茂先生が「ボランティアのこころ、福祉のこころ」を演題に講演されました。
 石井十次という人が出てきたのは、突然変異ではない。地域という風土があった。石井十次が半生を送った岡山にもそれを育てる精神文化がある。それは、弱者への視点がはいっているかと゜うかが県民の評価基準になっている。
 アフガンの人々は、世界から見放されるのが怖い。だから見放してはいませんというメッセージを送る。しかし弱者にもプライドがあるから、スポンサーシップの立場ではなく、パートナーシップ、フレンドシップの立場、他人の役に立ちたい、困った時はお互い様の気持ちを伝える。
 世界が認めるのは数ではない、理念である。
等々、熱いメッセージを次々に発せられ、参会者に深い感動を与えた。
 次に東洋大学の菊池義昭教授が、「茶臼原村の建設と農場学校の役割」をテーマに講義されました。
1)茶臼原村の建設の意図と経過 2)茶臼原孤児院と農場学校の役割
3)農場学校の教育とその成果
の三つのテーマで残された記録をつぶさに検証し、対等な関係の孤児院づくり、どの子も同じ光り輝くかけがえのない存在の社会造りを目指した足跡を明らかにする貴重な研究報告で先人の偉業に感銘を受けた。
 講演、講義に続いて懇親会が開かれ、ご来賓のあいさつ、遠来の参加者や職場の若手代表のスピーチ、全員参加のじゃんけん勝ち抜き戦による商品獲得、歌唱指導つきの石井十次の歌の斉唱など多彩な内容で、幅広い交流が繰り広げられた。
(文責・むつび編集部)
    

                 感動は心の響き

                      宮崎市佐土原町
                        児玉勇

 世の中には誰でも感動する場面や瞬間が数多くあると思います。私もこれまでに感動や感激を経験して、元気づけられたり、勇気をもらったりしたことが何度もあります。その中から一つを取り上げて述べてみることにします。
 もうだいぶ前のことですが、私が妻北小学校に勤務していた時のことです。教員住宅の隣に“トリス”とい名前の犬が住んでいました。間もなくして、私が学校
から帰ってくると、すぐしっぽをふりながら寄ってきました。犬好きの私は頭をなでながら声をかけて家にあがりました。そして、まだいるかなと思いながら勝手口の扉をあけたら、扉の前にトリスがきちんと座っていたのです。『まだいたのね』と言って、台所から食べ物を持ってきて与えました。トリスは喜んで食べました。5分ぐらい相手をしてから、『またね』と言って別れました。でも、やっぱり気になったので扉をあけてみたら、まだ座っていました。再度『またね』と言いながら扉をしめました。5分ぐらいしてから扉をあけてみたらトリスの姿はありませんでした。多分きらめて帰ったのでしょう。
 次の日学校から帰ってくると、またしっぽをふりながら寄ってきました。どうして分かるのだろうかと思ったら、どうやら車のエンジンの音を聞いて、家から出てくるみたいでした。同じように頭をなでて家にあがり、勝手口の扉をあけたら、きちんと座って待っていました。私はトリスが可愛くなって仕方がありませんでした。直ぐ食べ物を見つけて与えました。『またおいでね』とか話しかけながら、ひとつひとつ食べさせました。トリスは嬉しそうに私の顔を見ながら、さも満足そうな様子でした。
 このようにして、トリスとのつきあいが始まりました。家に帰ると必ず出てきて、車の後で待っていてくれました。来てない時はひもで繋がれている時でした。
 夜暗くなって帰ると、トリスに気がつかないことがありました。すると必ず『ワン』とひと声出しました。ここに自分(トリス)はいるんだよとの意思表示だったのです。ますます可愛くなってつきあいが続きました。
 それからというものは、トリスが必ず来てくれると思うと、家に帰るのが楽しみになってきました。トリスも待っているのかなぁと考えるとなおさら嬉しくなりました。食べ物はいつも切らさないように用意しておきました。幸いなことにトリスは何でも食べてくれましたので、食べさせるのに張り合いがありました。
 トリスとのつきあいが3年間続きましたが、とうとう別れの日がやってきました。神門小学校(当時の南郷村)へ転勤になったのです。なごり惜しみながら、トリスと別れました。
 神門小学校で2年間勤務した後、茶臼原小学校へ転勤になりました。再び以前の居住地の近くの教員住宅に引っ越して来ました。
 車から荷物をおろし家に運んでいる最中に、2年前のトリスがやってきたではありませんか。私は『トリスよく来たね』と言って、頭をなでてやりました。私の姿を見て来たのか、偶然か分かりませんが、とにかく感動と嬉しさで胸が熱くなった瞬間でした。トリスは荷物の片付けが終わるまで座って待っていました。
 翌日、同僚にこの事を話したところ『いや偶然ではない、覚えていたんでしょう』と話してくれました。
 犬(トリス)が私に感動を与えてくれました。やはり感動を与える人間にならなくてはと思いつつなかなか実行できません。その後、トリスはやって来ることはありませんでしたが、最後に大きなプレゼントをくれました。
 まさに“感動は心の響き”です。




                   

                       第143号
                    2009年8月発行

      挨拶が出来る木城っ子を目指して
                     宮崎県木城町
                    黒木 逸郎

 
十数年位前の事です。 
 ある研修会で都城市に行った時の事、研修会には当時の岩橋市長さんをはじめ、市の要職の方々が列席されていました。
 当然挨拶、来賓紹介等行われます。 
 その席で私が感動したのは、お一人お一人が名前をよばれて「はい」と元気良く返事をされた事でした。

 子供が挨拶をしない、返事をしないとよく耳にします。 
 はたして挨拶、返事をしないのは子供達だけでしょうか。

 今、木城町で展開されています日本一の挨拶の町作りのスローガンが、 大人が変われば子供が変わるのです。 
 私が挨拶運動で学校の通学路に立ち挨拶を始めて7年になります。

 学校正門前の信号機、旧木城分遣所、中学校バックネットの三ヶ所に立ちますので、95%以上の小学校児童には声が掛けられると思っています。  中学生には通学路の関係で30%しか声を掛けていないのではと思っています。

 小学校の子供達に向かって、「おはようございます」 と挨拶をします。元気よく 「おはようございます」 と挨拶が返ってくる子、小さな声で返ってくる子、口も動かない子、どこのじいさんじゃろかと、いぶかしげにじろっと見る子、下を向いて通り過ぎる子等様々です。

 中学生に同じ様に挨拶をします。 
 男子生徒は、ぶっきらぼうで声の大小はあっても、おはようございます と挨拶を返してくれる生徒、無視して通り過ぎる生徒(少数)。 
 女子生徒は向うから先に挨拶をしてくれる生徒、挨拶を返してくれる生徒、じろりと私の顔を見て無視して通り過ぎる生徒、(男子より多い)うつむいて通り過ぎる生徒等様々でした。  

 校長先生も毎朝校門に立たれますので、同じ様に校長先生にも無視した様な態度です。 
 校長先生との会話です。
 「先生なんで挨拶をせんとでしょうかね。じいさんが立って何か言いよるが、と思ちょっとでしょうかね」 と私。 
 「黒木さんそんな事を何も考えんとですよ」
 「へーそんげなもんでしょうかね‥‥」

 呼び止めて注意をすべきか、悶々とする日が続きます。 
 挨拶は強制されてするものではないのではないかと思い直し、何時かは挨拶
が返ってくる事を思いながら毎朝立ちました。

 小学校では挨拶をしていた子供が、中学校になったらしなくなったり、その逆だったりした事もありました。 
 頭をコクリと下げて通り過ぎる様になるまで3年掛かった小学校の女子も居ました。 
 とうとう中学校を卒業するまで挨拶が返らなかった女子生徒も居ました。

 今までいろいろな子供達との出会いがありましたが、現在は、私が出会う子供達のほぼ100%の子供達が挨拶をしてくれます。 
 ハイタッチもしてくれる様になりました。 
 今では子供達から元気を毎日もらっています。

 こうなるまでには、木城町の挨拶日本一の取り組み、小 ・ 中学校当局の取り組み、青少年健全育成町民会議の取り組み、地域の子供は地域で育てようのスローガンで取り組まれた、地域教育システムプロジェクト会議の御尽力のおかげで、沢山の方々に通学路に立っていただき、元気に声かけをしてもらっています。

 ある先生が、お話の中で子供の非行は悲しみの表れですと言われました。 
 家族からは話もしてもらえない、地区の人からも声をかけてもらえない、そんな状態が続くと子供達は、自分は此処に居るんだと言うメッセージを送ります。   それが非行となって表れます。

 非行の防止は大人達が子供にどれだけ声を掛けられるかとも言われました。  昨日は元気に登校して来たのに今日は元気が無いなあと思われる子供もいます。子供達も日々お生活の中で、子供達なりのストレスの中で生活を送っているとよく言われます。

学校に行くのが嫌々ながら登校している子もいるはずです。 
 そんな時、地域の方々が声をかけていただければ子供達も元気に登校出来ると思っています。 
 ご家族の皆様にお願いします。 
 子供が家に帰るのが楽しみになる様な言葉で学校に送り出して欲しいと思っ
います。 
 温かな声かけをお願い致します。

 ある女子高校生の話です。 
 冬のある朝課外授業のため、薄暗い内に自転車で家を出、通行中に何やら人の気配を感じ、何時もうのように挨拶をしましたが返事がありません。 
 よくよく見るとそれは地区の人が立てた、交通安全の案山子だったそうです。

 その事を家に帰って話して皆で大笑いしたそうですが、誰にでも挨拶が出来る心温まる話ではありませか。

 ラジオでの話。 
 家庭の温もりと言えば、
(子供の声)(人の声)
(物を作るこえ) 家に三声あり  家庭の三声 (家庭の話し声)
(家庭の笑い声)(家庭の歌声)

 どちらも声かけの大切さを説かれた言葉だと思われます。 
 家族同士ありがとうをもっと言い合いましょう。


   その一言と言う詩

 その一言で励まされ    その一言で夢をもち

 その一言で腹が立ち    その一言でがっかりし

 その一言で泣かされる   ほんのわずかな一言が

 不思議に大きな力持つ   ほんの一寸の一言で


 考えさせられる言葉です。

 挨拶の輪が広がります様に


              

                      第142号
                    2009年7月発行


          友愛園に炭窯完成
                   宮崎県木城町
                    中武 福男

 初夏の風が吹きわたる今日このごろ、山は新緑が青々と繁りさわかです。

 私は、宮崎の山ふところ中之又、字屋敷原に住んでおります。
 児嶋理事長を知ったのは今から20年位前のことでした。 木城町に初めて
児童委員が出来た時に知り合った方でした。

 理事長さんは、何回か私の家に足を運ばれ、私も何回か友愛社を訪問しました。
 何年か前に、理事長さんが炭窯の話しをされたことがありました。 最近になって「どうしても炭窯を作って下さらんか」と話があり、私は最近作ったことがないので不安でしたが、「何とか作ってみましょう」と返事をしたのでした。

 理事長さんの案内で炭窯を作る場所を見に行きました。 「炭窯作りには相当な石が必要です」と言ったら、トラックで石運びに仲之又まで上がって来られました。 私の山には石があるので、それを運んでもらいました。たしか6台か7台運ばれました。

 そして炭窯作りが始まりました。 地ならしは、松本さん(卒園生)がして
下さいましたので、石積みを始めました。 40年位前に作ったのが最後でしたので、色々と考えながら何とか形が出来ました。 近くにあるセンダンの木を切って窯の中に入れました。

 真ん中を1メートル位すかして横木を並べ積み上げました。 次に金網を張り、土を練りだんごにしたものをその上にのせました。 私は金網を張ったのは初めてでした。 3、4人で夕方までかかり仕事は終わりました。
 次の日は粘土を乾燥させる為に一日中火を燃やして帰りました。

 翌日、理事長さんから電話があり、火が天井の横木に燃え移り焼け落ちたというのです。 びっくりして行って見たら、ほんとうに空(クウ・炭窯の頂上部)は落ち屋根も大分焼けておりました。 私はがっかりして体の力もぬけてしまいました。

 けれども、理事長さんがこれだけ楽しみにしておられるのですからと、修理に取り掛かり、今度は炭窯いっぱいに木を入れ自然乾燥するのを待ちました。 今度は焼土は充分あるので大丈夫です。 それから10日か15日位して空(クウ)を締め始めました。

 一廻り1時間半位かかって1日に2~3回、平棒でたたき締めるのです。そして5日間位締め火をいれました。 火は5日間位燃えて煙が出なくなり炭窯は出来ました。 

 40年前に作った私の炭窯は、現在も炭が焼けるようにしてあります。新しいものばかりが出まわる今日、私は誰か炭窯作りを知ってほしいと思いました。
   
            


                 第107号
              ―2006年8月発行―

         
愛ばかりの人 朝山のお母さん
         80年も90年も前のこと

                松本マサ

 あの頃は、本当にたのしかった―。
 おてんばだった少女の頃、「マサ子、行くゾー」と声をかけられ、農場、学校のお兄さんたちに連れられて行った栗拾い、沢山の人で賑わったクリスマス。思い出すのは、楽しかったことばかりです。

 朝山のお母さんは、優しいお母さんで、愛ばかりのひとでした。もう、80年も90年も昔のことです。私は、今の「森の空想ミュージアム」の道を隔てた東側の朝山組に、数十人のこども達と暮らしていました。

 朝山組は大きな家で、三つの部屋があり、私達こどもの部屋、お母さんの部屋、そして蚕室に分かれていました。お母さんは、台湾総督府の偉い方の奥さんだったそうです。

 骨董が好きで、いつも大切にしていた壺がありました。それは故郷の四国から送られてきたもので、お母さんの部屋の隅に大切に置かれていました。終日、こども達のざわめきの中の朝山組のそこだけは、静けさの漂う場所だったような気がします。

 ある日、事件が起きたのです。誰かが、その壺を割ってしまったのです。
 「壺が割れている!」「誰が割ったの」「私じゃあない」「誰?割ったのは」
 数十人のこども達が口々にそんなことを言い、大騒ぎになりました。

 こども達とはそういうものです。やがて、一人の女の子がしくしく泣き始めました。その瞬間、すべての事情がこども達に伝わり、シーン、となりました。その時、朝山のお母さんが、自分の胸に手を当てて
 「あ、お母さんが悪かった、誰も悪くないの。ほんとうにごめんないさい」
 「誰がした、誰がした」と詮索する心も、素直に「ごめんなさい」と言えないようにしてしているのも、みんなお母さんが悪いからだ、という意味だったのでしょう。

 80年も90年も過ぎた小さい頃の出来事なのにあの日のことは決して忘れません。本当に朝山のお母さんは、愛ばかりの人でした。

 こどもの頃から私は、本当によく働きました。田は一軒に四反、野稲も植えました。男子部は牛馬を使って耕作するのですが、私達女子は、鍬や草かきでの仕事です。農作業の指導は農場学校の人たちがしてくれますが、収穫はなかなか上がりません出した。

 それでも自給自足でしたから、食べ物は芋、南瓜、雑炊、それも米粒は少ししか入っていません。それに醤油などは作れませんでしたから、ほとんど味噌で味付けです。本当に面白い話でしょ。それでも自分たちが出来んのだから、と不満はありませんでした。

 「食糧がない」と事務所に言って行けば、配給は貰えるのですが、なるだけ貰いに行くまいと私達は思っていました。朝山のお母さんが辛さをこらえて食糧を貰ってきてくれることを知っていたからです。
 そう言うと、お母さんは、
 「そんなことはないよ、こども達の為だもの」
 といつも言いました。私は、こどものくせにお母さんを悲しませたくないと思い、
 「あるもので頑張ろうよ」
 とよくみんなに言いました。有名な石井のお父さんの話に、「縄の帯」がありますが、私達、あの頃、本当に縄の帯を締めていました。

 私はお洒落な子でした。小切れを貰うとそれを集めておいて紐を作り、それを締めるのが好きでした。夜なべ仕事にその美しい紐作りをするのを朝山のお母さんは微笑んで見つめてくれました。美しく出来上がっていくのが楽しい夜でした。

 その帯を締めて石田組に行くと
 「朝山組はお洒落で困る。みんなが真似をする」
と小言を言われ、私は悲しくて泣きました。そこに居合わせた遺棄先生が、
 「女の子はお洒落するものだよ」
と言って助けてくださって、嬉しかったこともありました。

 小さい頃、きっと私、世話好きだったのでしょう。よくみんなから
 「マサちゃんに助けられた」
と言ってもらいました。同じ朝山組に渡辺イツさんはいました。ここからそう遠くない西都市に今も元気でいます。
 
 あの子は私を本当の姉と思っていたのです。ある時
 「私にはウタ子という本当の妹がいるのよ」
と言ったら、泣いてしまいました。

 朝山のお母さんは、60歳になって故郷の四国に帰って行きました。その寂しさや悲しさは、後々まで残りましたけれど、なぜかあの朝の空の青さしか思い出せません。

 辛いことはみんな忘れて、思い出すのは楽しかったことばかりです。

       (友愛社を支える会・会員/明治41年6月27日生まれ・宮崎県木城町在住)

                           ――聞き取り/むつび編集部――

             
 

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

「石井十次の会」は、石井十次の愛と理念を継承して、福祉・文化・教育活動を続けている、石井記念友愛社のさらなる充実発展のために、物心両面から支援しようと結集した会です。十次は自身の制定した「茶臼原憲法」の冒頭で、「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信し 相愛す可き事」と記しています。今の世相を考え、日本の将来に不安を感じる時、今こそ真摯に十次の遺訓を学び実践して道徳的な情操の育成をすべきであると痛感します。石井記念友愛社では、幼児・児童生徒達が師弟同行で十次の心を学びながら、家族的生活を営んでおり、いろいろと事情のあった子供達も、生活に慣れるに従い、落ち着いて明るく成長しています。このような友愛社の子供達の成長ぶりや教育体験は機関紙「友愛通信」「むつび」によって報告されています。石井十次の理念を広く社会に向けて発信し、地域の福祉や教育にも役立ちたいと願って活動を続けています。

  ゆうあい通信
石井記念友愛社の現・理事長児嶋草次郎のエッセイです。友愛社と茶臼原の日常が綴られます。

 





         石井十次の会 会則

 [石井記念友愛社後援会 友愛社を支える会 会則(抜粋)]


 第一条 本会は、「友愛社を支える会」と称し、事務局を石井記念友愛社内に置く。
 第二条 本会は、石井記念友愛社の福祉、文化、教育活動への後援を通じて、石井十次の愛 と理念の継承、石井記念友愛社の充実発展、さらには地域福祉の向上に寄与する。
 第三条 本会はその目的を遂行するため、次の事業を行う。
 1 石井記念友愛社の諸活動への財政的支援
 2 石井記念友愛社所有の福祉文化財の保管と管理に関する支援
 3 その他、会員相互の懇親と目的達成のために必要と認められる事業
第四条 本会は、本会の趣旨に賛同し、会費を納入した者をもって組織する。

第十一条 本会の経費は、以下を以って充当する。
 1 会費 年額 個人 3000円 団体10000円
 2 寄付金、その他の収入
 3 高額の寄付については、社会福祉法人への寄付について税制上の優遇措置があるため(所得税法第78条第2項第3号該当 法人税法第37条第2項及び第3項該当)、石井記念友愛社への直接寄付を紹介する。

付則 この会則は、平成9年10月12日より制定施行する。 

             

石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が児童福祉の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開、『石井記念友愛社』として創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や岡山孤児院のさまざまな資料が保存・展示こされ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年(2009)「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。

社会福祉法人石井記念友愛社
     宮崎県木城町椎木644-1
   TEL0983-32-2025FX0983-32-3916


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