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石井十次は慶応元(1865)年に、現在の宮崎県高鍋町に生まれます。そして医学に志し、岡山で医学を学んでい時、キリスト教への信仰を深め、入信します。その時期、夫を失った四国巡礼の貧しい母子に出会い、その長男を預かり育てる決心をします。ここからが、石井十次と日本の本格的な孤児救済運動の始まりです。十次は、この時期、医師としての道を歩むべきか悩んでいましたが、聖書の「人は二人の主に仕うること能わず」という言葉に感動し、医学書を焼き捨てて孤児院の仕事に一生をかけることを決意したのです。

 孤児院の子供は次第に数を増し、明治24年の濃尾地震では、多くの震災孤児を引き取り、孤児数は数100人にも達したといいます。この時の運営資金は主に民間の寄付金で成り立っていましたが、その中でも最大の経済支援者は、後に出会う岡山県倉敷市の大原美術館創立者・大原孫三郎(倉敷紡績会社社長)でした。以後、石井十次の活動は、大原の支援を受けながら展開されます。

 その後、石井十次は、孤児院経営を寄付に頼ることをやめ完全な独立をはたすために、故郷・宮崎県高鍋町の背後に広がる茶臼原という台地の開墾と孤児の移住を始めますが、この台地の開墾は困難を極め、一時は事業をいったん中止せざるをえなくなります。

 しかし、不屈の闘志で事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功します。この「茶臼原孤児院」では明治38年の東北大飢饉の被災児を引き取り、孤児数1200名にも達したといいます。ところが、孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、今までの苦労が祟ったのか、十次は腎臓病によって亡くなります。

 この石井十次が亡くなった日に生まれたのが、十次の孫・児嶋虓一郎です。十次の死と第二次大戦によって中断されていた友愛社の仕事を再開したのは、終戦を迎え、故郷高鍋の港に復員してきた虓一郎です。虓一郎は、町にあふれる戦災孤児の姿を見て、友愛社の復興を決意したのです。

 以後友愛社の仕事は虓一郎から現在の理事長児嶋草次郎へと順調に引き継がれて現在に至っています。このページでは、石井十次について書かれた本や資料などを紹介し、今後の研究や検証の資料に役立てたいと思っています。


          方針
   自然主義 健康をつくります
   家族主義 家族をまもります
   友愛主義 家庭をささえます

   到達目標
 友愛の地域社会つくり

社会福祉法人石井記念友愛社
     宮崎県木城町椎木644-1
   TEL0983-32-2025FX0983-32-3916

       理念
天は父なり人は同胞なれば
互いに相信じ相愛すべきこと
   〈石井十次の言葉〉

  ゆうあい通信
石井記念友愛社の現・理事長児嶋草次郎のエッセイです。友愛社と茶臼原の日常が綴られます。

   石井十次と友愛社の歴史を伝える
  石井十次の本


岡山孤児院物語
石井十次の足跡
山陽新聞社2002年8月初版発行
1000円(税込




社会福祉という言葉もなかった時代、愛と情熱で3000人もの孤児を
救った男がいた。「岡山孤児院」の創設者であり、明治・大正期の日本社会事業史
に大きな足跡を残し、「児童福祉の父」とも呼ばれる石井十次。
その生きざまを描く。「人間が人間らしくある事の意味」、
それを考えるための絶好の一書。
(表紙帯の文より)

  本書は、2001年11月から2002年3月まで山陽新聞朝刊に連載された企画「岡山孤児院物語」に加筆され、まとめられたものです。執筆は、同新聞編集委員室の横田賢一氏。写真は同・長瀬正巳氏。横田氏は、著作の冒頭で、石井十次の生誕と岡山での福祉事業の開始について「およそ百年前のことである」と書いています。
そして、「書きながら実感には乏しかった」という時の流れの中で、一時は1200人もの
収容児を抱えて日本一の規模となり、全国にその名をとどろかせた岡山孤児院も石井十次も、ほとんど忘れ去られ、岡山でさえ「知る人ぞ知る」という歴史の彼方に追いやられてしまったことに危機感を抱きます。そして地元紙・山陽新聞の使命として、十次の岡山での活動から宮崎・茶臼原へと至る過程を、丹念に資料を検証し、足跡をたどって、
日本の福祉史を語る上で欠くことのできない、偉大な生涯と事業を掘り起こしたのです。
この本は、岡山での石井十次と大原孫三郎の友情、その後に継続される石井記念友愛社の事業などを顕彰する貴重な一書となっています。

以下はこの本の発刊に寄せた石井記念友愛社理事長・児嶋草次郎の言葉です。


                     「発刊に寄せて」

 「毎月頼むものも頼むもの 応ずるものも応ずるもの・・・之れ物質以上の交でしょふ」(石井十次日誌 明治四十一年八月三十一日)
石井十次と大原孫三郎の関係に触れた一文ですが、他の場所では、
「君と僕とは炭素と水素 あえばいつでも焔(ほのう)となる」(同四十四年十月一日)
とも二人の友情関係を表現しています。
言うなれば乞食の親分と大実業家の親分との間に、なぜ焔といえるような友情関係が
育っていったのか。学歴、モノ、金信仰の今の時代に生きる我々にとっては、謎と言える人間関係でしょう。
しかし、我が日本も戦後五十数年が経ち、大きく破綻し始めています。それらの信仰によって積み上げられていった巨大機構がガタピシと音をたてています。このまま崩壊していくのか、それとも輝かしい我が日本の本来の姿をとりもどすことができるのか。老いも若きも、金持ちも貧乏人も、そして政治家・役人も我々庶民階級の人間たちも、今立ち止まって、人間の生き方について半生してみる時なのでしょう。その時参考になるのが、先人たちの後ろ姿であります。
 この度、山陽新聞に連載された「岡山孤児院物語―石井十次の足跡」が、単行本として上梓されることをうれしく思い、また山陽新聞社および著者横田賢一氏に感謝しております。
横田氏は、最新の研究者たちの石井十次研究成果を細かく読み解き、岡山だけでなく
宮崎や大阪など、その足跡を丁寧にたどりながら、ジャーナリストの冷静な目で、その歴史を簡潔にまとめあげて下さいました。我々福祉現場の人間たちが見落としがちな、その時代背景や状況もしっかり描いて下さっているところ、さすがだと思います。
おそらく、霧の中の石井十次が、くっきりと浮かび上がって来たと感じられた読者も多くいることでしょう。
横田氏も念じておられるように、「人間が人間らしくあることの意味」、それを考えるための絶好の書が与えられたと感じております。
抽象的な言葉の遊びから人生を考えるのではなく、我々先人たちの心と心の交流をなぞることで、人間が人間らしく生きていく知恵を、もう一度学びなおすべき時が来ているように感じます。
金や物や地位や名誉や脅しやすかしではなく、互いの至誠こそが、心と心の和・輪を形作っていくのだということを再確認したいと思います。


愛の心を今に
生き続ける石井十次遺訓
宮崎日日新聞社(1994年12月初版)



日本の社会福祉事業の先駆者で「孤児の父」と呼ばれた石井十次。
岡山、宮崎などに孤児院を開き、延べ3000人の孤児を救済。
岡山の大原美術館の創始者で倉敷紡績社長の大原孫三郎らの
途方もない援助を受けながら奇跡の事業を成就させた。
その足跡を通して児童福祉の在り方などを問う。
(表紙帯の文より)

 本書は、平成6年(1994年)から半年にわたり、宮崎日日新聞に連載された企画「愛の心を今に 生き続ける石井十次遺訓」が編集され、一冊にまとめられたものです。
この年は、石井十次没後八十年、岡山孤児院から宮崎・茶臼原に移住・開拓を開始してから百年にあたり、「国際家族年」でもあったことから、地元紙である宮崎日日新聞社が熱意と機動力をもって企画・取材に取り組んだものです。
取材陣は、茶臼原の日常から書き起こし、岡山、大阪、群馬、東京、北海道さらにはブラジルまで十次の足跡を求めて飛び回り、筆をふるいました。
当時は、「飽食の時代」といわれ、生活は豊かになり、繁栄を謳歌しているかにみえましたが、一方で、親が子を殺し、子が親を殺傷するなどの事件が各地で頻発し、学校現場でのいじめや、子どもへの虐待などが後を絶たず、家庭崩壊や相手の心の痛みをなんとも思わない風潮などが指摘されていました。
そんな折、記者さんたちは、四十九年の生涯を大飢饉や戦争などによる貧児や孤児の
救済、教育に情熱を捧げ、偉大なる「無私の奉仕者」徹した石井十次のスケールの大きさ、
その業績や時代の中で果たした役割、その後に引き継がれてきた友愛社の歴史などに
感銘を受けたのです。そして、そのような偉人が時の彼方に封じ込められ、
忘れ去られようとしている現実に驚き、危機感を持って情報収集と発信にあたりました。
この本は、石井十次と友愛社の歴史を掘り下げるとともに、当時の生き生きと展開される
「石井記念友愛社」の日常を記録した貴重な一書となっています。
(同書の後書き参照)


石井十次と岡山孤児院
―近代日本と慈善事業―
細井勇著ミネルヴァ書房(2009年7月初版)
8400円(税込)




著者の細井勇氏は、1953年、北海道生まれ。同志社大学大学院在学中に
関西社会事業史研究会に招かれたことにより、社会事業史研究を開始し、
同志社大学での種々の研究を経て石井十次資料館の所蔵資料調査に関わったことを
縁として、石井十次研究が始まりました。同資料館収蔵の膨大な資料を整理し、ひもときながら、氏は、
近代日本を代表する慈善事業家である石井十次のミュラー等英国のキリスト教慈善事業に
影響を受けた思想と実践が、日本の近代化過程のなかでどのように展開されていったのかを検証。
さらに、日誌・書簡を含む関連史資料の考察から、石井の内面的エートスに注目しつつその独自性を
たどりながら、社会的文脈のなかで、また関係者との交流史のなかでその思想と実践と
その意味を捉え直し、530ページにも及ぶ大著にまとめました。
この書は、今後の石井十次研究の手引きとなることでしょう。



児童福祉の先覚者
まんが
石井十次物語
漫画/南一平
岡山「石井十次顕彰会」設立準備会
2008年5月発行
980円(税込)

 

この本は、山陽新聞社の協力により、岡山「石井十次顕彰会」設立準備会
によって編集・発行されました。岡山県知事(当時)の石井正弘氏が、「発刊に寄せて」
という文の中で、次のように述べています。
『この物語の主人公の石井十次は、親のない子どもたちに心を痛め、
医学の道を断念し児童福祉の道へと進み、岡山に孤児院」を創設しました。
それが日本で最初の孤児院です。また、自ら小学校もつくり、子どもたちそれぞれに合った
能力も身に付けさせました。「指導福祉の父」とも呼ばれる社会事業家であったと同時に、
先進的な教育者でもあったのです。十次は人々が日々の暮らしにあえいでいた時代に、
「孤児のために命を捨てて働かん」と誓い、次々に襲いくる困難と波乱万丈の生涯を乗り越え、
数々の偉業を残しました。(以下略)』
このまんが「石井十次物語」では、その石井十次の生誕から少年時代を経て、
青年時代に岡山で孤児救済を決意するまで、そして、宮崎・茶臼原へと移転し、
福祉と教育と農業の理想郷を築こうと奮闘する時代、そして早すぎるその死から
現代の「石井記念友愛社」へと引き継がれてゆく感動の物語が、南一平氏の美しい絵で描かれてゆきます。
石井十次と友愛社のことを手軽に知る資料としても、少年期の教育書としても一級の書物といえる作品です。


 


本文より「縄の帯」の場面


本文より大原孫三郎が、開拓の始まった茶臼原を訪ねた場面

映画「石井のおとうさんありがとう」
DVD
3000円
 
映画「石井のおとうさんありがとう」
パンフレット
500円
 
 天は父なり 人は同胞なれば 
互いに相信じ 相愛すべきこと

日系ブラジル人の西山洋子は、祖父から手渡された石井十次の写真を持って、自分のルーツを探るため、その生まれ育った日本・宮崎へと向かう・・・。そこで洋子は、「岡山孤児院」を作り、三千人もの孤児を救い教育した石井十次という男の存在を知る・・。この映画は、福祉ということばさえない明治時代に「愛の炎」となって児童救済・教育に生涯を支えた石井十次の物語です。
2004年に現代プロダクション/山田火砂子監督松平健主演によって制作されたこの映画は、全国を巡回し大きな感動と反響を呼びました。
このDVDはその普及版です。
日本の近代史は、この大きな人物
の名を書きとめておくのを忘れた。

山田火砂子脚本・監督の映画「石井のおとうさんありがとう」は松平健の演じる石井十次、永作博美の演じるその妻、品子を中心にして、近代日本の福祉活動の原点とも言える史実を描いている。そこで何より嬉しいのは、その施設が、経営の困難や無理解な人々の苦情などの苦労はありながらも、基本的にはとても素直ないい子たちと、十次だけでない善意の有志の人々の心の絆によって成り立っていたと知ることである。
(映画評論家・佐藤忠雄) 
このパンフレットには映画制作に関わった多くの人たちのメッセージが載せられています。



石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。慶応元年(1865)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。岡山孤児院を創設し「児童福祉の父」と呼ばれた十次の元には、一時は1200名もの子どもたちが保護されたといわれます。施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。石井十次が児童福祉の父・福祉の先駆者などと呼ばれるのはこのことによります。

やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、 木城町と西都市にまたがる茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、 明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。

ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。

その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開、『石井記念友愛社』として創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には十次の遺品や岡山孤児院のさまざまな資料が保存・展示こされ、十次の偉業を伝えています。

現在の友愛社は、これらの歴史と理念を継承し、約50人の園生が生活する「友愛園」と友愛社が運営する七つの保育園、二つのデイサービス事業、石井十次の生涯と友愛社の歴史を記録する「石井十次資料館」などを中心に運営されており、また、それを支援する後援会「石井十次の会」があります。そして今年(2009)「茶臼原自然芸術館」(障害者就労継続支援型事業)が開館、自然布の染織と無農薬農業の実践を通して障害者の技能習得と自立を支援します。豊かな自然に抱かれた茶臼原の大地で、石井十次がめざした「福祉と芸術が融合した理想郷づくり」の夢の実現へ向けて石井記念友愛社の新しい歴史が刻まれてゆきます。